お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2010年12月25日土曜日

2-8 パラティーノの丘、ドムス・フラウィア

⑳博物館の外階段から地面を浅く掘り込んだ遺構が見えた。あれがドムス・フラウィアの⑰八角形の遺構だ。しかし、柵があるので直接には行けない。
ドムス・フラウィアは、⑰八角形の遺構の他に、南の⑱食堂(トリクリニウム、Triclinio della Domus Flavia)と北の⑮アウラ・レギア(王の間、Aula Regia)と⑬その前廊部分、その西の⑯通称バシリカ(Basilica、地下はイシスの間 Aula Isiaca)、東の⑭通称ララリウム(c.d. Laralium、地下はグリュプスの家)泉水堂(ニンフェウム Ninfeo)がある。
⑰ペリスティリウム(Peristilip della Domus Flavia、柱廊に囲まれた中庭)の中心部は、あまりにも平たいので何重かの八角形くらいにしかわからない。
そんな時はグ-グルアースで真上から見るのが一番。柱廊の柱跡が四角く並んでいる。

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『ROMA』は、この巨大な宮殿は、ドミティアヌス帝が建築家ラビリウスに命じ、すでに存在していた建造物を取りこみながら81年から96年にかけて建てられた。迎賓の空間として、公務用のドームス・フラーヴィア(Domus Flavia)と中にスタディウムもある私的空間としてのドームス・アウグスターナとに分けるのが通常である。ドームス・フラーヴィアの現在の入口は、長方形のペリスティルム(列柱廊)として形作られた巨大なアトリウム(玄関ホール)に入ることができ、その中央にはかつて迷路模様で飾られた噴水であった八角形の水盤があり、いくつかある迎賓の間は噴水に面していたという。
グ-グルアースでは、柱廊の西側にはそのような部屋跡が並んでいるのが見える。
これくらいの高さから見ると、八角形の中が迷路状に仕切られていることや、それを列柱廊が巡り、そしてその外側に迎賓の間が並んでいた様子が理解できる。
(後に通った④ネロの地下通廊にあった写真)
アトリウムから北に行くと⑮王の間跡は草が生えているだけだが、立ち入り禁止になっていた。
その東⑭のところはCASA DEI GRIFIと表示があり、立ち入り禁止。ここは地上にはララリウム、地下にはグリュプスの家があるらしいのだが。
視界が開けたと思ったら、アトリウムの北側に来ていた。ずっと南の方に⑱食堂の遺構があるのだが、どこから行けば良いのかわからない。
⑮王の間の南端には周囲の弧を描いた遺構があった。王の間の平面は楕円に近かったようだ。
上には大理石の柱頭が載せてある。アカンサスの葉をモチーフにしたコリント式よりも複雑だ。
そしてさっきから気になっていた、あまり古くなさそうな建物が正面に見えてきた。あの前に⑲楕円の噴水がある泉水堂ニンフェウム(Ninfeo)がある。その西に並んでいる遺構が迎賓の間。
この柱廊部を通って見に行けそうなのに、素通りしてしまった。
道の西側は柵があって入り込めない。迎賓の間とは壁を隔てているが、こちらにも部屋のような建物があったらしい。
柵の外側をのぞきこむと地下部分が見えた。この通路は白石のテッセラ(tessera、小さな切石、構成する物の形にもよるが、多くは正方形に近い形)が並んでいる。目を凝らすと、黒い長方形が見えてきた。白地に黒いテッセラを何列か直線に並べてあるだけの簡素なものだが、舗床モザイクに違いない。
その北側は大理石の列柱廊(⑯の西側)となっている。王の間だけあって、大理石の柱が並んでいたらしく、その残骸が並べてあった。ここ柱頭は何種類かあるようだが、コリント式のアカンサスの葉だけというのではなく、いろんな要素で構成されているようだ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)