お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月25日火曜日

7-6 フォロ・ロマーノ(Foro Romano)、最奥部には神殿がたくさん

セプティミウス・セウェルスの凱旋門よりも更に奥にも遺構はある。この辺りはカンビトーリオの丘のすそ野になるため登り坂となる。

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凱旋門側からちょうど正面の列柱が見えるのは⑲サトゥルヌス神殿(公金保管庫、Tempio di Saturno con erario)。
『ROMA』は、胴体はなめらかでイオニア式柱頭のある御影石の円柱が8本並ぶが、本式の正面のアーキトレーブを支えていた。サトゥルヌスの神殿は、王朝時代に創建されたが、何度も再建され、283年の火災後の再建が最後のものである。神殿の前には、建物があって国の宝物を保管していたという。
『ローマ古代散歩』は、ルビコン川を渡ってローマに進軍したカエサルが、この扉をこじ開けさせた話は有名であるという。
北側正面に6本、両側面に1本ずつ残っている。中央広場の方からは2本だけ残っているように見えたものだ。
カンビトーリオの丘の大きな建物の窓に灯りが見える。ホテルだろうか。その下には古いアーチが3つある。
現ローマ市庁舎の土台となり、3つのアーチ窓をみせているのは⑮タブラリウム(Tabularium)である。独裁官スッラの時代に建てられ、青銅板に彫られた法律等の国家記録を保管したという。
アーチの中には彫像が1体ずつ置かれていたようだ。
アーチの内側にも遺構が残っている。ここからフォロ・ロマーノを見下ろしている人がいたので、入れるのだろう。
神殿はバシリカや中央広場などに比べると小さい。その小さなものが隅の方に集まって建てられている。
フォロ・ロマーノの北西の隅も立入禁止になっている。⑯コンコルディア神殿(Tempio della Concordia)のあった場所だ。
前4世紀に貴族と平民が和解したリキニウス法の成立を記念したものという。
平面からは東に正面があり、6本の円柱が正面にあったようだ。
その南には⑰ウェスパシアヌスとティトゥスの神殿(Tempio di Vespasiano e Tito)。
『ROMA』は、81年にドミティアヌス帝が建てたもので、今では6本柱でなるプロナオス(前室)の美しい円柱が3本残っているという。
平面を見ると、こちらも正面が東で、円柱は正面に6本、側面に1本ずつあったらしい。
写真を整理していると、⑲サトゥルヌス神殿を側面から見たものとよく似ているので混乱してしまった。
更に南に⑱十二助言神の柱廊(Portico Degli dei Consenti)。
『ROMA』は、フラウェウス帝の時代に建てられ、367年に再建された。8つの並ぶ空間からなり、シポリオン(雲母大理石)の縦溝がある12本の円柱がその前に立っているという。
8つの空間というのは、ここからは5つ見える崖の下の四角い穴のことだろう。
上の方からフォロ・ロマーノを見下ろしている人たちがいた。そこからコロッセオまで見通せるのだろうか。
8つの部屋の上はそれぞれ楣(まぐさ)と重量軽減のためのアーチとがレンガで造られている。
裏から見たサトゥルヌス神殿。
セプティミウス・セウェルスの凱旋門の西側に基壇があるのは、⑯コンコルディア神殿の基壇の一部。聖なる道(Via Sacra)からこの凱旋門をくぐってフォロ・ロマーノ最奥部の神殿にお参りしていたのだろうか。
『ローマ古代散歩』は、前6世紀末に最後の王が追放されて共和政に移行した後も、ここは常に国政の中心であり、戦勝のたびに彫像や記念碑で飾られた。華々しい凱旋行列が、やはりエトルリア系王によってカピトリヌス丘に創建された至善至高のユピテル神殿(=カピトリウム、TEMPLUM IOVIS OPTIMI MAXIMI-大文字はラテン名)に向かい、フォロの聖道(わが国で言えば神社の参道のようなもの)を行進するという。
聖なる道はもっと上の神殿へと向かう参道だったようだ。
サトゥルヌス神殿を巻いた坂を下りながら振り返る。これが前廊の円柱が全て見えるぎりぎり。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)