お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年9月21日金曜日

玉門関1 版築の壁面にワラ状のものが見えた


一面ゴビ灘の一本道を北上していくと料金所があった。
草がポツポツと見えて来たが、料金所を過ぎて振り返ると、胡楊の苗を育てていたり、さらに遠方には胡楊林が広がっていた。
ということは水に近づいているということになるが、玉門関は砂漠の中にあるのでは?
やっぱり中国は遺跡の前に門がある。それも闕門。かなり離れたところに玉門関が見えている。
ガイドの史さんは、漢の時代に二つの関所がありました。陽関と玉門関ですね。ホータンから運んだ玉が通る時にこちらの関所を通ったので、玉門関と呼ばれていますという。
『地球の歩き方』は、約25m四方、約10mの高さの城壁が残るという。遠くから見ると、想像していたよりも小さな建物だった。

『万里の長城』は、玉門関はまたの名を小方盤城という。敦煌の西北90㎞の沙石の丘の上にそびえる。関城は方形を呈し、周りの城垣はよく保存され、黄胶土の夯築で造られ、西と北に二つの門がある。城壁の高さは10mに達し、上の幅3m、下の幅5m、上には女垣があり、下には馬道があって人馬が直接頂部へいけるという。
「夯築」は中国語で版築のこと。女垣は矢狭間を切り込んだ壁面。
10年前なら中に入れただろうが、現在は柵を巡らせていて、頂部どころか柵の中さえ入ることができない。
同書は、玉門関はシルクロード北道の咽喉もとの要所である。前漢時代に張騫が道を開き西域に使いしてから、玉門関のこの税関を通って、中原の絹やお茶などの物産がどんどん西方各国へ輸出された。また西域諸国からは葡萄、メロン、果物などの特産品と宗教、文化が相ついで入ってきた。当時の玉門関はラクダの鈴の音が響き、人馬がにぎやかに行き交い、キャラバンの往来が絶えず、使者が行き来し、繁栄した情景が見られたという。
シルクロードを拓いた漢の武帝(在位前141-87年)が築いた関所のはずで、これが創建当初のものなら、2000年以上も風雪に耐えてきたことになる。
下の方が削られているのは偶に起きる洪水のせいだろう。
陽関の方は洪水で流されてしまい、何も残っていないが、それと比べるとよく残ったものだ。
陽関についてはこちら

版築の層は前漢時代でさえ一定の厚さで突き固められている。
一見凹凸があるので日干レンガのようにも見えるが、アップするとレンガ積みのような切れ目はない
日本にも版築の壁はあるが、ずっと後の時代に造られているにもかかわらず、層の厚さが一定していない。
それについてはこちら
柵の片隅に版築の破片が集められている。壁面を見て感じるよりも固そうだ。
北壁は、東側の表面にワラのようなものが出ている。
版築で壁を造った後にこのような茎をブチブチ突っ込んだのかな?
北の門は何故か日干レンガで下部を閉じてある。
そこから内部を覘くと中程に龕のようなものがある。ひょっとしてあれが馬道?
北東の角を曲がると東壁もワラのようなものが突き出ていることがわかった。
北門の西側と東の一部は、版築の層が厚い。壁面を造った後で、もっと厚くするためにワラを差し込んで、版築を重ねていったのだろうか。
遠くから見るとワラは等間隔のようにも見えるが、
ズームするとまばらで、適当に差し込んでいったように見える。
南東の角はやや欠けている。その崩れた箇所に茎のようなものはあるだろうか?
やっぱりあった。内側の版築を積み重ねる過程でこのワラのような茎のようなものが入れられていたらしい。
それとも、現在の人が茎を差し込んでいって、近いうちに修復するつもりなのだろうか。
玉門関と陽関は同時代に設置された。前漢時代、玉門は都尉の治めた所である。後漢のとき玉門関は玉門都尉の所轄となった。両晋、南北朝では戦争が頻繁に起こり、また西方との海上交通は日増しに盛んになり、シルクロードは衰退のきざしをみせた。
隋唐になると、晋昌(今の甘粛省安西県)から伊吾(新疆・哈密市)に大道が通じ、これはまた近道で玉門関から今の安西双塔堡附近に至るものであった。これから旧玉門関はだんだんと衰退していった。関口は埋もれ長城が倒壊し、道に人影なく、終には廃墟となったという。
崩れてもこれだけのものが残っている。
つづく

※参考文献
「地球の歩き方D07 西安・敦煌・ウルムチ シルクロードと中国西北部」 2011-12年 ダイヤモンド社
「歴史アルバム 万里の長城 巨龍の謎を追う」 長城小站編 馮暁佳訳 2008年 恒文社