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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年8月8日木曜日

ペロポネソス半島2 コリントス遺跡5 E神殿(オクタビアヌスの神殿)


博物館の向こうに見えているのは、神殿E、アウグストゥス帝が建立した神殿である。
今では傾斜地に土台が残るだけだが、説明板によると、創建当初は立派な列柱廊に囲まれた神殿だったらしい。
どうやら博物館は、北列柱廊跡の一部に建てられているようだ。

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東正面には大きなコリントス式柱頭を戴いた3本の短い円柱に、エンタブラチャーが載せられている。
『ギリシア都市の歩き方』は、前4世紀から前3世紀にかけてアテネ、スパルタ、テーベそしてマケドニアというギリシア勢力が次々と衰退し、あるいはローマの軍門に下るなかで、唯一ギリシアの独立を主張する、最後のギリシアのポリスとして、アカイア同盟の盟主となるときを迎える。
この時期のコリントスの名を留める文物に、建築オーダーとしてのコリントス式円柱がある。ドーリス式(前7世紀末)およびイオニア式(前6世紀初)に続く、ギリシアの建築オーダーの三番目として登場するコリントス式は、柱頭を除いてすべての細部において、イオニア式のそれと同じ特徴を備える。しかし、その柱頭はアカンサス(はあざみ)の葉をあしらった意匠によって形成されている。これは、古代ローマの建築家ウィトルウィウスにしたがえば、前4世紀にカリマコスによって考案されたとされているという。
説明板によると、神殿の第一段階はこのようだったらしい。
博物館にはライオンの樋口のある軒飾りが2つあった。どちらも彩色されていた。

文様帯が浮彫になっているもの。
そして、左の蔓草は浮彫だが右のパルメット文下縁の卍繋文、そして下辺の卵鏃文様などは彩色だけのものがあった。どちらかというと、この方が古そうだ。
どちらがE神殿のものだったのだろう。
しかし、同じ説明板には、第一段階として、ドーリス式の円柱が6本並んだ図を挙げている。
ペディメント(三角破風)の左隅の倒れている人物はこれだったのかな。
しかし、第二段階では下図のようになってしまったようだ。
更に、説明板には第一段階(後1世紀)と第二段階(後1世紀後半)の神殿と周廊の平面図があるので、このアカンサスのコリントス式柱頭は後1世紀後半のものだろう。
ギリシア神殿は東が正面で、第一段階・第二段階ともに、1:プロナオス(前室)、2:ケラ(ナオス、神室)、3:ペリスタイル(周柱廊)という構造である。
博物館の近くには、コリントス式柱頭が幾つか置いてあった。


        コリントス遺跡4 博物館3← →コリントス遺跡6 中央アゴラ

関連項目
コリントス遺跡3 博物館2
コリントス遺跡2 博物館1
コリントス遺跡1 グラウケの泉と神殿址
ペロポネソス半島1 コリントス運河

※参考文献
「ギリシア都市の歩き方」 勝又俊雄 2000年 角川書店