お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年10月21日月曜日

オリンピアからデルフィへ


オリンピアを出発して1時間ほどで海が見えてきた。イオニア海。
そしてリオアンデリ橋へ。
こちらのリオの町と対岸(ギリシア本土)の町アンデリィリオを繋ぐ斜張橋。
ここからコリントス海峡までがコリントス湾となる。

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橋の手前にも遺跡があった。
オスマントルコ、ヴェネツィアと使われ続けた要塞だという。

高速道路もあるが、途中に景色のいい所があるからと。運転手のコスタスさんは回り道してくれた。

それはナフパクトスという港町

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『世界歴史の旅ギリシア』は、コリントス湾の出入口を北岸からにらむ位置にあり、パトラスと並んで戦略上重要な港湾都市だった。「造船の地」というほどの意味にあたるこの都市の名は、伝承によるとドーリス人がペロポネソスへ渡る前にここで船をつくったことに由来するという。
ナウパクトスは西ロクリス人のポリスであったが、その重要性に注目したアテネは、前456年にこの都市を攻略し、スパルタに対する第三次反乱に敗れたメッセニア人を移住させて、西ギリシアへの橋頭堡とした。ペロポネソス戦争ではスパルタ側の北西ギリシア進出をはばむアテネの拠点として利用され、アテネの無謀なシチリア遠征の出航地としても使われた。
しかし、現在の街は古代よりも中世の雰囲気をよく残し、風光明媚なリゾート地として知られている。中心地に立つヴェネツィア時代の城塞や、オスマン帝国下に古代の石材を組み込んで建設された城壁が、レパントと呼ばれた中世の街を偲ばせる。1571年にオスマン帝国海軍が、ヨーロッパ連合艦隊に大敗を喫した「レパントの海戦」は、まぎれもなくこの町の沖合でおこなわれたのであるという。
城壁上の国旗のそばの銅像は「ドン・キホーテ」を書いたセルバンテス。この戦いに従軍したのだとか。
もちろん、港の左側にも城壁はある。何故か両方を一枚に収めた写真がなかった。
小さな港に小舟がぎっしり。
そこで子供達の歓声が聞こえてきたと思ったら、海に飛び込んで遊んでいた。
まだ6月だというのにギリシアではもう夏休み。何故なら、「暑くて勉強なんかできない!」からだそうだ。
大人達は木陰でお茶している。暑いが日陰に入ると涼しい乾いた風が吹いて心地よい。
こちらでは頭から飛び込んでいた。
山側にも城壁は巡っている。
城壁は何重にもなっている様子だった。

その先は海が見えたり、道路が海と離れたりの繰り返しだった。
遠浅の浜辺。
やや高い所を通ると小さな町が海岸沿いに見える。赤い屋根、白い壁の建物が青空に映える。
結構こわい箇所も。
岩の色が違うのではなく、日陰の岩と日の当たるところとでこのように色が変わって見えるほど、太陽の光が強烈。
そして静かな青い海。
こんな小さな浜もありいの、
こんな小さなリゾート地もありいの、
ついでに風車もありいの、などと窓の外を見たり撮ったりするのに忙しい。居眠りなんかしていられない。
小さな町の中心には教会が必ずあるなどと思っていたら、
海の向こうには、山の中腹にデルフィの小さな集落が見えてきた。遺跡はわからないけれど。
海辺の白い町はイテアというリゾートの町。右奥には標高2457mのパルナソス山。
デルフィの町をアップで。
左端が今夜泊まるホテル。遺跡は町の右側。

デルフィの町は斜面にあるので、横の通りはほぼ平ら、縦の通りは急な階段になっている。
舌状の尾根の右側にデルフィ遺跡が広がっている。

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オリンピアを出発して、休憩を含めてここまで3時間20分かかった。
遠いような近いようなデルフィまで、あとどれくらいかかるのだろう。イテアの湾に沿った西側に、赤い小山が目立った。ボーキサイト採掘場だという。
 湾を回り込んで、イテアの町が砂州の上にあることがわかった。

30分ほどでホテル到着。
ロビーにはアカンサスの花が生けてあった。アカンサス好きの私には嬉しいこの一角。
下の方にはもう種ができている。ついでにあのギザギザの葉も入れておいてほしかった。
ロビー南側のベランダからイテア湾と町、そして向こうにうっすらとペロポネソス半島の山々を眺める。

雲が出てきたが、明日も晴れますように!


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※参考文献
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社