お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年10月30日水曜日

デルフィ4 アポロンの神域3 アテネ人の宝庫


デルフィ、アポロンの神域の参道は、13:シフノス人の宝庫と14:メガラ人の宝庫を過ぎた所で右に折れる。
その曲がり角付近には宝庫群が密にあった地域だ。
17 ポティダイア人の宝庫

18 不明のオイコス(家)

19 エトルリア人の宝庫跡に建てられた アスクレピオスの聖域 前4世紀
『DELPHI』は、おそらくエトルリア人の建てたアルカイック期の宝庫の基礎に建てられたのはアスクレペイオン、アスクレピオス神の小聖域である。この地で発見された奉納物から、デルフィでは前4世紀にアスクレピオスが崇拝されたようだという。

20 泉
おそらくアスクレピオス神の小聖域に属するという。

とたくさんあったが、ほぼ何も残っていない。
アポロン神殿の高さから見た方がよくわかる。

21 アテネ人の宝庫 前490年頃? 6.60X9.69m パロス島産大理石
『ギリシア美術紀行』は、1903-06年アテナイ市により復元された「アテナイ人の宝庫」。建立の理由と年代は論争中であるが、パウサニアスによれば、前490年のマラトンの戦いにおける戦利品で作られたという。ドーリス式イン・アンティス型の建物。アルカイクからクラシックへの過渡期の様式を伝える、前30枚(正背面各6枚、側面各9枚)のメトープのうち、断片を含め24枚が残存している。破風は余りにも断片的という。
東正面の想像復元図(考古博物館の説明板より)
以前にこの図を他の本で見たときは、楯が柱の間に掛けられているのに注目した。それについてはいつの日にか。
メトープはアマゾノマキア(神々とアマゾン族の戦い)を表してる。

上図とは全く似ていない。

破風
考古博物館の説明板は、女性の頭部はアテナ女神のものと比定され、東破風のテセウスとヘラクレスの間に立つシーンか、西破風の戦闘場面で指令する場面のものと推定されているという。
東壁メトープ1
同2
南壁
メトープ(左端から)
続き
考古博物館に収蔵されているメトープ
テセウスとアテナ
復元された東正面左端のメトープに似ている。
 テセウスとアンティオペ
テセウスとスキロン
復元された東正面左から3つ目のメトープに似ている。
テセウスとマラトンの牡牛
復元された東正面右から2つ目のメトープに似ている。

上の方から眺めると、屋根までは復元されていなかった。
 北壁のメトープ
考古博物館に収蔵されているメトープ 
ヘラクレスとネメアのライオン
ヘラクレスとキクノス
 ヘラクレスとケリュネイアの牝鹿

背面(西壁)のメトープ
『DELPHI』は、ドーリス式フリーズには希なヘラクレスの話という。
アクロテリアの一つ
馬上の完全武装したアマゾン。宝庫の屋根の一角を飾っていた。

22 アテネ人の奉納物
アテネ人の宝庫の南面に奉納物を並べていたらしい。

23 ブーレウテリオン 6.5X13m 
『ギリシア美術紀行』は、デルフォイ市の15名の代表委員や8名の参事会員のための会議場。恐らく木製坐席をもったアルカイク時代のものという。 

24 シラクサ人の宝庫 前413年頃
『古代ギリシア遺跡事典』は、宝庫やモニュメントの建てられた位置にも、政治的なプロパガンダとしての意味あいが強かった。前415-413年のアテネのシチリア遠征の失敗後にシチリアのシラクサ人が建立した宝庫は、「アテネ人の宝庫」の真正面に建てられたという。

25 クニドス人の宝庫 前6世紀中葉 イオニア式
『DELPHI』は、ペルシアへの服従以前に建立された、イオニア式の2本の円柱のあるイン・アンティス型という。
この写真がクニドス人の宝庫かどうか自信がないのだが・・・
考古博物館の説明板は、コレー像はクニドス人の宝庫のファサードに配置されていた。短いヒマティオン(上着)とキトンを着けている。キトンは、掴んだ右手から放射状に襞ができるほど薄いものだ。この像は東ギリシア、特にサモス島やイオニア地方の工房の様式であるという。
クニドスそのものがイオニア地方に存在したのだから、その地方の様式に従ったのだろう。
長く襞のあるキトンと傾きのあるヒマティオンを着たコレー像は人像柱だ。クニドス人の宝庫に飾られた2体のカリアティドは、最も初期のものだという。
ただの線刻ではなく、線刻された両側がやや盛り上がり、襞のない面は凹ませて、抑揚をつけている。
コレーの左肩
髪の束が3本、高く表され、ヒマティオンの文様なのか、4本のギザギザ線がほぼ等間隔で彫られている。

26 不明のオイコス(家)

27 ガイアの聖域
『DELPHI』は、この場所は、決して動かない大きな岩があるために、非常に神秘的である。ガイア女神がデルフィの主であった時代に崇拝された場所はここである。アポロンがその泉を守っていた蛇のピュトンを退治したのもここである。女神の聖域と思われるアルカイック時代の建物り基礎が見られるという。

28 シビュラの岩(下図左半分の岩)
『ギリシア美術紀行』は、伝承によれば、アポロンがこの聖域に来る前に、最初の巫女といわれるヘロフィレがこの岩の上で予言したという。

29 レトの聖域(中央の岩)
『DELPHI』は、伝説では、レト女神が子供のアポロンをここで抱いていたという。

30 ボイオティア人の奉納物 前4世紀
同書は、台座が残っているという。

31 ナクソス人のスフィンクス 前570-560年頃 ナクソス大理石
同書は、ナクソス人が島の最盛期に奉納したスフィンクス。アテネ人のストアの西側の岩の上にイオニア式円柱(12.1m)が立っていて、その柱頭の上に載っていた。保存されている柱頭は前328または327年のものという。
アルカイック時代のスフィンクス 高さ2.32m
この架空の動物は、その謎めいた表情、ライオンの脚と胴、鳥の羽根そして女性の頭部で、古代の芸術家に好まれた主題である。スフィンクスはしばしば葬送用ステラにものっているという。
コリントス考古博物館にあるスフィンクス(前550年)と比べると、やや表現がかたいような。
想像復元図
こんなに高くする必要性があったのだろうか。
このイオニア式柱頭 前328または327年
渦巻が美しい。付け根には半パルメット文かな。
一方、参道の右(南)側には図に記されていたりもするが、不明の半円形の遺構がある。
その下側にも。

デルフィ3 アポロンの神域2 シフノス人の宝庫
               →デルフィ5 アポロンの神域4 ハロースに埋められていたもの

関連項目
デルフィ11 デルフィの町とギュムナシオン 
デルフィ10 アポロンの神域9 スタディオン 
デルフィ9 アポロンの神域8 劇場
デルフィ8 アポロンの神域7 アポロン神殿
デルフィ7 アポロンの神域6 デルフィの馭者像
デルフィ6 アポロンの神域5 青銅蛇の柱に載っていたのは鼎
デルフィ2 アポロンの神域1 シキュオン人の宝庫
デルフィ1 まずはアテナ・プロナイアの神域から

※参考文献
「DELPHI」 ELENI AIMATIDOU-ARGYRIOU 2003年 SPYROS MELETZIS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版