お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年11月25日月曜日

オシオス・ルカス修道院4 パナギア聖堂


主聖堂(カトリコン)の赤矢印からパナギア聖堂に行くことができる。
通路上の小さなニッチにも聖バジルのモザイクと、その下にオシオス・ルカスの肖像がある。
その下を通って、
『世界歴史の旅ビザンティン』は、両聖堂の結合部分に聖者ルカスの墓があり、巡礼はどちらの聖堂から入っても墓参ができるようになっていたという。
パナギア聖堂へ入る前にこのような狭い部屋がある。この向こうがルカスの墓ということで、ヴォールト天井の下にはオシオス・ルカスの聖骨が納められている。この部屋に入る通路自体が狭いので、当時は墓参りするにもかなりの行列ができただろう。
ヴォールトの向こうにはオシオス・ルカスのモザイクが見えるようになっている。
身廊北袖廊西側にあるオシオス・ルカスの肖像
目以外はほぼ左右対称。衣文も直線的だが、黒い衣装に金箔ガラス・テッセラで暈繝(グラデーション)を表すというのは、初めて見たように思う。主聖堂を荘厳する金地モザイクの中のキリストや聖母でさえ、着衣に金のグラデーションを施すことはしていない。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、9世紀にルカスなる修道士が現れて、病気治癒などの奇跡をおこなって人々に崇められた。953年に没すると、墓は聖者の遺徳を慕う巡礼の目的地となり、修道院が建立される。この時代、パレスチナや小アジアへの巡は困難だったため、新たな巡礼地が必要とされたのだろうという。
それほど慕われたオシオス・ルカスなので、その肖像は目立たない場所にあるが、一番豪華な僧衣を着けているのだろう。

パナギア聖堂
『THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA』(以下『THE MONASTERY』)は、この聖堂は当時コンスタンティノープルで一般的だった様式で建立された。10世紀後半、テオトコス(神の母)に献納された。4本の円柱があり、内接十字型で、9.45X9.75mの身廊を持ち、ギリシア教会の建築様式の先駆けとなった。その石積みの技術の高さは、コンスタンティノープルの石工を招いて造らせたことを思わせる。その後外に向かって開けた柱廊を含む広いナルテックスと小さな礼拝堂2つを付け足した。正半円アーチを後陣に造り出し、内側と外側の扶壁(バットレス)で支えているという。
この聖堂の平面には歪みがあるのではないだろうか。実際に中にいても気付かないが、このように、平面図を横にしてみると、東側が北向きになっているのがよくわかる。
コンスタンティノープルから招聘した一流の石工が造ったというのに、どうしてこのような造りになったのだろう。
主聖堂が建立されるまでの期間に地震でもあったのだろうか。

何もない石造りの聖堂に入る。ナルテックスはひたすら静かな空間で、葉が勢いよく外に広がった柱頭だけが目立っている。
身廊への入口の楣石もアカンサスが横に並んでいる。10世紀につくられたものか、古い石材を再利用したものか、よくはわからない。
後陣のロンデル窓から光が入っている。
その窓が創建当時のものか、修復の際新しいものを嵌め込んだのか。
モザイクなりフレスコなりが剥がれてしまったために、半円筒壁面から半ドームを架ける様子がよくわかる。
テンプロンにはやはりイコンが掛かり、入口はカーテンが引かれて内部は見えない。
主ドームは二連のアーチ窓が8つ巡ってその上にドームが架かっている。それを主聖堂(カトリコン)のようにスキンチではなく、4つのペンデンティブで支えている。これは大小の差こそあれ、首都コンスタンティノープルの6世紀に建立されたアギア・ソフィア大聖堂のドームの架構法と同じだ。
それについてはこちら
ドームのアップ。平煉瓦を持ち送ってドームが造られているのもよくわかる。
同じ大きさのヴォールト(円筒)の身廊と袖廊がドームで交差する内接十字の集中式だが、妙に歪んでしまった。いや、そうではなく、平面の歪みが天井に現れているのかも。
後陣の右(南)側のヴォールト天井に、フレスコ画が少し残っていた。
下の方の楣石や柱頭の彫刻も独特。
聖人が3人だけ残っていた。『THE MONASTERY』によるとカラランボス、カタニアのレオそしてソフロニオスという名前が判明している。
テンプロン脇の柱頭にもフレスコが残っている。やはり紺地だ。主聖堂が金地モザイクだったが、パナギア聖堂の方はラピスラズリの紺地に、色彩豊かなフレスコ画に埋め尽くされていたことだろう。

現在は、むき出しの石造りの壁しか残っていないといっても、各所に掛けられたイコンや教会の様々な道具で結構華やかだった。
同書は、大理石のドームを支える4本の円柱は花崗岩でコリントス式柱頭を戴き、床のモザイクと共にアレクサンドリアの工人の代表作で、堂内を荘厳していたという。
これがその柱頭。彫りは浅いが、アカンサスをモティーフにした様々な図柄が刻まれている。
床のモザイクもわずかに残っていた。内側に大小の金箔と黒のガラスで十字架が構成された七宝繋ぎ文になっている。コスマーティ様式かな。
いやコスマーティ様式は12世紀に入ってからではなかったかな。それ以前にも床に金箔ガラスや色大理石を駆使した幾何学文様のモザイクというのは存在したのだろう。
コスマーティ様式についてはこちら
一見石材のむき出しの殺風景な堂内だが、細かく見ていくと、10世紀後半の技を駆使した痕跡にめぐり会うことができた。

ナルテックス(拝廊)から外に出る。
西側に後に付け足した柱廊は二階建てになっていた。


オシオス・ルカス修道院3 主聖堂(カトリコン)2 身廊
                                →オシオス・ルカス修道院5 クリプト

関連項目
4-1 サンクレメンテ教会(San Clemente)、地上階は12世紀のロマネスク様式
7日目7 トラブゾン、アギア・ソフィア聖堂1
ペンデンティブの誕生はアギア・ソフィア大聖堂よりも前
オシオス・ルカス修道院2 主聖堂(カトリコン)のナルテックス
オシオス・ルカス修道院1

※参考文献
「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」 HIERONYMOS LIAPIS 2005年 ATHENS EDITIONS
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社