お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年11月18日月曜日

オシオス・ルカス修道院1


午後デルフィを出発、山中を走ってオシオス・ルカス修道院へ。

途中でパルナソス山の尾根の裾野に広がるアラホバという町を通り抜けた。ギリシアではスキーリゾートとして有名とのこと。
町を通り過ぎて、全体が眺められる場所で写真ストップ。
町をアップ

30分ほどでオシオス・ルカス修道院の駐車場に到着。周囲にはピスタチオ林が広がっていた。ピスタチオはちょうど実を付けたばかりだった(写真はピンボケばかりだったので載せられない)。
駐車場から修道院までは少し離れている。
通路の角に、幹しか写せないほどの松の大木があった。
左に曲がると鐘楼が見えてきた。あれ、屋根が丸い。
現地ガイドのジョージアさんはどんどんと歩いて行く。
ここからは屋根は見えない。
立ち止まってゆっくり見上げたかったのに・・・
ジョージアさんは、どう見ても新しい金地モザイクのタンパンがのある門をくぐってしまった。

『世界歴史の旅ビザンティン』は、冬には雪で道が閉鎖されることも少なくないが、ここは美しい土地である。デルフィが聖なる「気」を漂わせた土地であることを語る人は少なくないが、オシオス・ルカスもまたまちがいなく聖なる土地である。
9世紀にルカスなる修道士が現れて、病気治癒などの奇跡をおこなって人々に崇められた。953年に没すると、墓は聖者の遺徳を慕う巡礼の目的地となり、修道院が建立される。この時代、パレスチナや小アジアへの巡は困難だったため、新たな巡礼地が必要とされたのだろう。
現在の建物は、2つのギリシア十字式聖堂が結合した特殊な形態をとる。両者の壁を共有する形になっているという。
下図(『THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA』より、キリスト教会は東に後陣がくるので、この図では上が東)のAが主聖堂(カトリコン)、Bがパナギア聖堂。Z:鐘楼の脇にある門をくぐって入る。


中庭は三方が建物に囲まれている。正面及び左側の建物は僧房、右手に見えているのが主聖堂。
ここからはパナギア聖堂は見えない。
主聖堂の両側には扶壁(バットレス)が建物の壁を支えている。特に南側の方は大きく横に張りだして、
通路のためのアーチが組み込まれ、
更にC:食堂の壁面にまで達している。
しかし、「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」の想像復元図によると、扶壁はもっと複雑に下方まで何段かに造られていたようだ。
同書は、南側の大型聖堂が主聖堂(カトリコン)である。ダフニと似た八角形の大型ドームをいただき、11世紀初頭の建築とされるという。
主聖堂のファサードにはロンデル窓が目に付く。
玄関の上方にはフレスコ画があった。とうやらキミシス(聖母の死)を表したものらしいが、何時の時代のものだろう。ビザンティン教会では内部をフレスコ画やガラス・モザイクで装飾しても、外側は装飾しないはずなのに。
タンパンにもロンデル窓がつけられている。というよりも、多弁な円形に板ガラスを嵌め込んでいるといったところのようだ。
楣石(まぐさいし)や外側のアーチを支える部分などには昔の石材が使われていて、どちらもアカンサスの葉を横に並べたものだ。
 楣石の右上にも僅かにフレスコが残っている。
その右側。焼成レンガだけでなく、様々な廃材を再利用してファサードは造られたようだが、これが創建当初のものなのだろうか。
二連アーチの窓の上にもフレスコ画があり、聖人の胸像が描かれていたようだが、よくは残っていない。

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オシオス・ルカス修道院2 主聖堂(カトリコン)のナルテックス


関連項目
オシオス・ルカス修道院5 クリプト
オシオス・ルカス修道院4 パナギア聖堂
オシオス・ルカス修道院3 主聖堂(カトリコン)2 身廊

※参考文献
「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」 HIERONYMOS LIAPIS 2005年 ATHENS EDITIONS
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社