お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年12月23日月曜日

テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟


カストラキを出発。この頃にはもう雨よりも暑さが心配になっていた。
しばらくは山がちの風景を見ながら狭い道を行き、
農耕地の中を走り、時には木のトンネルを通り、
視界が開けてくると、最近できたばかりという高速道路に入り、そこからはあまり変化のない景色となった。
右手にギリシアの最高峰オリンポス山(標高2917m)が見えたりもした。
やがて大きなアクシオス川を渡り、
向こうの斜面に広がるのがテサロニキの街。

テサロニキは海に面した街(下図はホンドス・センターというデパートが配布するコピー・フリーの地図)。
『ミシュラン・グリーン・ガイド・ギリシア』は、テッサロニキは前315年に、古代都市テルミ(テルマイコス湾にその名を残す古い寒村)の地に、マケドニアのディアドコイ(将軍)であったカッサンドロスによって建設された。カッサンドロスは、アレクサンドロス大王の異母妹である妻テッサロニケの名をこの都市に付けた。
古代ローマの支配時代に、テッサロニキの町は、港として、また特にヴィア・エグナティア街道(Via Egnatia)の宿駅として大いに発展した。ヴィア・エグナティアは、中東に向かう古代ローマの幹線街道で、ティラッキウム(アルバニアのドゥレス)と小アジアを結んでいた。
西側には工場が立ち並び、北側にはオリエント風の特色を持った山の手が、東側には住宅地が広がるという。
エグナティア街道はコンスタンティノープルまで繋がっていたというので地図を見ると、2つの街はほぼ同じ緯度だった。

工場街を過ぎ、いよいよ市街地に入ってきた。
写真で見るとそうでもないが、テッサロニキは大型バイクがどんどん通る街という印象が強い。

あっという間に海岸沿いのレフォロス・ニキス通り(Leforos Nikes)に入り、右手に海を、左手に街を見ながらバスはどんどん通り抜けていった。

そしてやっと止まったのがこの塔の前。バスから降りると暑~!!
『ミシュラン』はテッサロニキの中心には、海に面したアリストテレス広場Plat.Aristotelousがある。湾を前にした景観、樹木の立ち並ぶ幹線道路、立派な商店街、数々のビザンティン教会などが観光客を惹きつける。ただし、暑熱の夏と湾の奥が氷結するほどの厳しい冬は避けたいものであるというが、ほんまに暑い!でも日本と違ってカラっと暑い。

① ホワイト・タワーと呼ばれているレフコス・ピルゴス
同書は、かつて、城壁の南東の角に組み込まれていたこの白い塔は、1866年に倒壊した海岸防衛線の主要構成部分をなしていた。トルコ軍はこの塔を15世紀に再建。16世紀には、しばしば主君を裏切ったスルタンの衛兵たち、つまりトルコの近衛兵を閉じ込める牢獄として利用された。1826年に彼らがマフムト二世に反乱を企てたとき、マフムト二世は反乱兵をこの塔に投獄し虐殺したので、当時この塔は「地の塔」と呼ばれた。忌まわしいこの呼び名を消そうと、トルコ軍はこの塔の壁を白く石灰で塗りかためて「白い塔」と称したのである。白い塔の高さは35m、レンガをはめ込んだ石積みがはっきりとわかるという。
オスマン・トルコは塔に閉じ込めるのが好きだったのか、イスタンブールのイエディクレでも牢獄として使われたので「大使たちの塔」と呼ばれる円形の監視塔がある。
それについてはこちら
平レンガを積み重ねて造られた時に、このような落書きのように嵌め込んだらしく、所々いろんな形のものがあった。何か意味はあるのかな?
今では公園になっていて、暑い日中でも散策する人たちがいる。左右に海岸線が続いて、眺めの良い場所だ。
ここからこのような観光船?が出ていて、テッサロニキの街を海から眺めることができるらしい。

②馬に乗るアレクサンドロス像
公園として整備中で近づけない。
その向こうの考古博物館のある交差点で斜めに左折。
エグナティアと呼ばれる通りに入る。ここがエグナティア街道だったのか、今も往来の盛んな通りだった。

城壁跡 ビザンティン時代
イスタンブールに今も残るテオドシウスの城壁の続きを見ているようだと思ったら、テオドシウス1世らが街を囲む城壁を整備した(『世界歴史の旅ビザンティン』より)らしい。
教会が出現したので撮ってみたが、新しそう。

浮彫のあるレンガ造りのアーチの残骸が!ローマン・コンクリートでは?
エグナティアス通りをどんどん走ってしまうのかと思ったら、コスタスさんがバスを停めてくれた。

④ガレリウスの記念門 4世紀初
『ミシュラン』は、ローマ皇帝ガレリウスを讃えて、4世紀に古代ローマ時代の都市の中心にあたる十字路に建てられた建造物の一部であった。石材で覆われたレンガ造りの石柱には、ペルシアやメソポタミア、そしてアルメニア各国に対してこの皇帝が勝利したことを称揚する浅浮彫が施されているという。
十字路に建てられたということは、ロータリーの中心にでも建立されたのかな。

『世界歴史の旅ビザンティン』は、この街の繁栄の第一歩は、ローマ皇帝ガレリウスによって築かれた。皇帝は宮殿と記念門、そしておそらくは自身の墓廟として巨大な円形堂(ロトンダ)を建設した。とくに記念門の浮彫りは古代末期の様式を伝える貴重な作例として知られているという。 
写し方が悪いのか、この三門式の凱旋門は幅広で水道橋の残骸のようだ。中央のアーチ下をエグナティア街道が通っていたのだろう。
『ミシュラン』は、南側の石柱は最も保存が良い。例えば、象やライオンとの戦い、右手のガレリウス帝と左手に彼の義父ディオクレティアヌス皇帝を配した供犠の図、ガレリウスの勝利の場面、配下の兵士たちに布告するガレリウスなどの場面が浮彫りされているという。
そうはいうが、長年の風雨にさらされて摩滅した浮彫が何を表しているのか、さっぱりわからなかった。
内側はよく残っている。
同書は、内側の壁では、下方には服従を誓う二人の女に象徴されるメソポタミアとアルメニアの図が描かれ、上方にはガレリウスが描かれているという。
アカンサスの葉が並ぶ上端や、アカンサス唐草などの文様帯もしっかりと彫り込まれている。
上から三番目に、スカーフのようなものを頭にかけた二人の女性の頭部が地面にあり、ガレリウス帝ともう一人誰かがその頭部を踏みつけている。
東側は西側よりもよく残っている。
この面の上から三番目が供犠の場面だろうか・・・

北側の石柱浮彫
西面は風化が激しくあまり残っていない。
内側は比較的状態はよい。三段とも馬が登場するくらいしかわからないが。
東面は非常に悪い。アカンサス唐草でさえ見分けにくい。

アギオス・ギオルギオス聖堂(ロトンダ) 4世紀
『ミシュラン』は、この教会の起源は、遠く離れた土地で死を迎え、埋葬されなかったガレリウス皇帝のために、4世紀に建てられた円形の霊廟であった。5世紀に、コンスタンティヌス帝とテオドシウス帝の命により、この霊廟はロトンド(円亭)を大きくしたり東側に後陣を付け加えたりして、「宮殿付属」教会として改築されたものである。さらにトルコ占領時にはモスク(ミナレットがある)に改築された。
クーポラの基部にあるモザイクは、建築物の遠景を前にして祈りを捧げる8人の聖殉教者を図像化したものであるという。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、エグナティア街道沿いのガレリウス帝記念門から南を望めば宮廷跡があり、そのすぐ北には円形堂(ロトンダ)が見える。円形をはじめとした集中式プランは、古代ギリシア以来墓廟建築としておなじみの形式であった。キリスト教聖堂に改造された時期については、4世紀末から6世紀初頭に至る諸説があってはっきりしない。東にアプシスの突出部がつけ足されて、聖ゲオルギオスを祀る聖堂となった。1978年の地震以来、長い修復工事が今も続くが、内部は5世紀と考えてよい豪華なモザイク壁画で覆われている。
ドーム頂部は美しい花輪に囲まれた「キリスト昇天」である。キリストの部分は剥落しているが、注意すると煉瓦壁体上にうっすらと下描きの痕跡がみてとれる。花輪を支えて飛翔する四天使の一部が今も残っている。アプシスには9世紀のフレスコ「昇天」が描かれているという。
今でも修復中なのかな?
内部の画像はこちら (この画像には下ドーム部に建物とその前に立つ殉教者のモザイクが含まれています)

『世界歴史の旅ビザンティン』にかろうじて2つの画像が載っていた。

殉教者の一人? ドーム基部 5世紀
コンスタンティノープル、アギア・ソフィア大聖堂のヨアンニス二世コムニノスとその妻イリニと聖母子像(1118年)のうち、聖母子像の目と眉の間や左側の鼻筋に赤い線があるのは、モザイク画の伝統にのっとったものだったというのがこの顔を見てわかった。
その上黄色い線まである。
もっと若い人物像もあった。

また同書には、記念門とロトンダ、そしてエグナティア街道の復元図があった。
記念門には、当初は南北方向にもアーチがあったようだ。現在は屋根もなくなり、そのどちらかが残っているらしい。
中央の大きなアーチの下を通る広い道路は、馬車ための道、人は両側の狭いアーチを通ったと聞いたことがある。そして、列柱道路はローマの属州にあって、ローマにはないなどというのも聞いたように思う。その時は暑い地方、北アフリカや西アジア、小アジアなどのことだと思っていたのだが、ここテッサロニキも当時は属州マケドニアだったのだから、あっても不思議ではないのか。
列柱道路はトルコのエフェソスや、シリアのパルミラ、ヨルダンのジェラシュなどで見たが、通りの脇の列柱に屋根があるとは思いもよらなかった。
それについてはこちら

メテオラ6 カランバカの聖母の眠り聖堂← →テッサロニキ2 ビザンティン時代の城壁


関連項目
列柱道路に屋根?
マケドニア朝期のモザイク壁画2 ギリシアの3つの修道院聖堂
ドームを壁体ではなく柱で支える
テッサロニキ9 アギア・ソフィア聖堂
テッサロニキ8 パナギア・アヒロピイトス聖堂3 モザイク2
テッサロニキ7 パナギア・アヒロピイトス聖堂2 モザイク1
テッサロニキ6 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 フレスコ画
テッサロニキ5 アヒロピイトス聖堂まで街歩き
テッサロニキ4 アギオス・ディミトリオス聖堂2 クリプト
テッサロニキ3 アギオス・ディミトリオス聖堂1  モザイクとフレスコ
テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟

※参考文献
「ミシュラン・グリーン・ガイド ギリシア」 ミシュランタイヤ 1993年 実業之日本社
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社