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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年1月29日水曜日

古代マケドニアの遺跡4 ペラ2 ディオニュソスの館


ペラ遺跡の入口を入ると、そこにはマケドニア貴族の館跡が東西に並んでいる。

まずは目の前のペブル・モザイクのある邸宅跡へ。

それはディオニュソスの館と呼ばれる貴族の邸宅跡だった。
『ギリシア古代遺跡事典』は、1957年に発見された前4世紀末のマケドニア貴族の館で、1区画のほぼ三分の二を占める約3000平米もの大邸宅である。
大小二つの正方形の中庭を数多くの小部屋が取り囲む二階建ての構造で、北側が家族の部屋群の南側が客用の部屋群と推定されている。北側の小さい方の中庭を囲むイオニア式柱廊の6本の円柱と、二つの宴会場(アンドロン)の大きな前室の床を飾っていた美しい幾何学模様の玉石モザイクが復元されている。
二つの宴会場の床の中央は、「豹に乗るディオニュソス神」と「ライオン狩り」のモザイク画、それぞれの宴会場の入口の部分の床は「鹿を襲うグリフィン」と「男女のケンタウロス」のモザイク画で飾られており、この作品は考古学博物館に展示されている
という。

最初に見たそこだけ独立したような白と黒のモザイクは、大きい方の中庭の西側にある③部屋の一つだった。

① 南側の中庭
同書は、南側の中庭はドーリス式柱廊で囲まれていたが、中庭の東側にある小さな祭壇の跡以外は、ほとんど残っていないという。
草が生えているのが列柱内部で、その周りを回廊が囲んでいた。回廊の北側と西側部分は復元されており、そこを歩いて見学した。
列柱のあるのが北側の中庭。

② 南側のアンドロン
中央に「豹に乗るディオニュソス神」、南に「鹿を襲うグリフィン」のモザイクがあった。現在は考古学博物館に収蔵されている。
アンドロンは宴会場あるいは食事室と訳される。中央のモザイクのある空間を囲んで長椅子が配され、それに寝そべって食事を楽しんだ。下図はローマ時代の想像復元図(『FIELD・HOUSE・GARDEN・GRAVE』より)
豹に乗るディオニュソス神
錫杖に付けたリボンの表現もみごと。鉛の線で指の輪郭を作っている。
しかし何でこんな方向からやねん・・・
鹿を襲うグリフィン
これには鉛の線がなかった。外側のペブルと比べると小さなもので絵を構成しているが、他の物より粗く、地が見えている。別の工人あるいは工房で作られたもの?最初はなかったので、後で作らせたとか。

③ 幾何学文様のモザイクのあるアンドロンの前室 
先ほど別の角度から見たモザイクで、三角形を組み合わせた正方形を入れ子にしていったような、私の好みのラテルネンデッケではないか。ラテルネンデッケの天井がマケドニアにあるという記述はどこにもない。しかし、ラテルネンデッケは正方形を入れ子にして上方に持ち送って最上部は円形になっているのだが、これは白色の正方形になっている。
トラキアに単純なラテルネンデッケ天井を持つ墓室、シプカ:オストゥルッシャの墳丘:墓室墓(前4世紀中葉-後半)があることを、以前ラテルネンデッケの最古のものはどれかを探している時に、トラキア THRAKIENというページの第154図に見付けたことがある。
『トラキア黄金展』は、前359年にコテュスが暗殺されると王国は再び分裂し、前341年までにマケドニア王フィリッポスⅡ世によって征服され、以後統一されることはなかった。フィリッポスⅡ世の子アレクサンドロス大王はオドリュサイの地を占領したトリバッリ族を閉廷し、トラキアを完全にマケドニアの支配下においたという。
ひょっとして、フィリポス2世、アレクサンドロス大王の2代がトラキアに遠征した時に、どこかの邸宅でそのような天井を見付けて面白いと思い、モティーフとして採り入れたのかも知れない。
アンドロンのモザイクに比べると、かなり大きな石を並べている。ペブル・モザイクは割石のテッセラ・モザイクと区別して丸石と訳していたが、丸石とも呼べない大きさなので、河石と呼ぶことにしよう。

④ 北側のアンドロン
部屋の中央に「ライオン狩り」、出入口に「男女のケンタウロス」のモザイクがある。
その南側は、中央に「豹に乗るディオニュソス神」と出入口に「鹿を襲うグリフィン」のモザイクのあるアンドロン。

更に南にはラテルネンデッケのモザイクの前室がある。
わかりにくいが、中央の剥がされたライオン狩りのモザイクの周囲には、蔓草文のモザイクが巡っていた痕跡があった。

ライオン狩り
人物やライオンの筋肉の動きが灰色の河石で表されている。
腕の輪郭や首筋、髪などに鉛の線が入っている。目の部分は鉛で囲んであり、貴石かガラスを象嵌していたのだろう。
男女のケンタウロス
中央部分がよく残っていないので、わかりにくかった。
男性のケンタウロス
やはり体の輪郭や髪、髭に鉛の線が入っている。下絵のようなものだったのかも。やはり目には何かが象嵌されていたよう。

⑤ 北側のアンドロンの前室
南北の中庭のに挟まれている。
そのアンドロンが向こうに見える。前室なので、客人はこの方向から入っていったことになる。縁の波頭文が四方を囲んでいたのだろう。
その拡大
波頭文はアンドロンのモザイクと同じくらいの小さな河石、菱形の広い面積を占めるモザイクは大きな河石を並べて文様を作っている。

⑥イオニア式列柱のある中庭
列柱のある中庭を巡る柱廊は、軒がかかって日除け、雨除けになっていた。
渦巻の小さなイオニア式柱頭がのっている。

博物館にあった上空からの写真。これが一番分かり易いかな。

 
考古学博物館にこの館の模型があった。こんな家屋だったとは想像できなかった。

ペラ1 円墳を辿ると遺跡に着く←     →ペラ3 ヘレネの略奪の館

関連項目
ペブル・モザイク2 ペブルからテッセラへ
ペブル・モザイク1 最初はミケーネ時代?
ラテルネンデッケの最古はニサではなくトラキア?
マケドニアの金製品
ペラ考古博物館3 ガラス
ペラ考古博物館2 ダロンの聖域
ペラ考古博物館1 漆喰画の館
ペラ4 アゴラ界隈
古代マケドニアの遺跡2 ヴェルギナ2 王宮まで
古代マケドニアの遺跡1 ヴェルギナ1 大墳丘にフィリポス2世の墓

※参考サイト
東京大学死後の礼節トラキア THRAKIEN古代トラキアにおける大型記念墓・墓に描かれた絵画・埋葬習慣

※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「FIELD・HOUSE・GARDEN・GRAVE」 Polyxeni Adam-Veleni Domna・Terzopoulou 2012 ARACHAEOLOGICAL MUSEUM OF THESSALONIKI