お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年3月13日木曜日

クレタ島3 クノッソス宮殿3


クノッソス宮殿は10中央宮廷を挟んで西翼と東翼の建物がある。

『クノッソスミノア文明』は、ミノア宮殿建築の特徴を最もよく表しているのは中央宮庭である。宮殿の建物はすべてこの周りに配されている。多くの人々が参集する儀式は中央宮庭で執り行われた。敷石はほとんど残っていないが、宮庭全体が舗装されていたという。

西翼2階から中央宮廷に下りて左手に三階建ての建物がある。2階は先ほど中に入った16フレスコ画(複製)展示室。窓に黒い円柱が見えている。
1階には常に行列ができている。
それは王座の間を見学する人たちの列だった。
18 王座の間の控えの間
『クノッソスミノア文明』は、中央宮廷に面する「控えの間」の北側と南側の壁には、石膏石製の低いベンチが取りつけられている。北側のベンチの中央に木製の椅子が据えられているのは、発掘時に炭化した椅子の痕跡がこの場に認められたからであるという。
一方通行で、2つの柱間から、しかも、肩の高さまでガラスの仕切りがあるため、上の方からしか見たり写真を撮ったりしなくてはならない。
19 王座の間
左側には3本の円柱と腰壁で仕切られた一角がある。吹き抜けになっていて、16:フレスコ画展示室と繋がっているのが見えたが、いったいどんな役目があったのだろう。
同書は、この部屋は宗教上、重要な役割を担っていたとみられている。エヴァンスは、王座の正面にある「清めの場」で心身を聖水で浄める儀式が執り行われたと考えた。「清めの場」は地面を掘り込んで床より低いレベルに設けられた長方形のスペースで、そこへ降りるための数段の階段が取りつけられている(排水設備がないので、浴室とは考え難い)。エヴァンスによれば、地下への降下は大地の母神に近づくということを意味していたという。
「清めの場」についてエヴァンスは「清めの浴室」としている(『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』より)。似たような部屋は前17世紀に、テラ島の噴火で埋没したアクロティリ遺跡建築にも見られる。
それで明かり採りのために吹き抜けにしてあるのかな。
吹き抜けの上階から見下ろした画像はこちら
王座の間の発掘中に撮影された写真の中にきわめて貴重な一枚がある。床の上に数個のアラバスター(雪花石膏)製の平べったい広口の器物(香油か軟膏状のものを入れる容器であろう)が置かれたままになっていて、部屋の隅には半壊したピソス(貯蔵用大型土器)も見える。宮殿が最終的に破壊された時にこの部屋で儀式が行われていたが、突然中断されたため、儀式に用いられていた器物がそのまま室内にとり残されたのであろうという。
現在王座の前に置かれている広口の浅鉢が、そのアラバスター・・・ではないわな。
室内のフレスコ画は復元されたものであるが、北側と西側の壁一面に葦(あるいはパピルス)のような植物の茂みの中に座しているグリフィンが描かれている。
グリフィンは神の三面を象徴している。鷲の頭は天空の神、ライオンの胴体は地を支配する神、そして蛇のような尾は地下(冥界)の神である
という。

赤と白で帯状にゆらゆら描かれた背景は何を表していたのだろう。たちこめる香油の香りだろうか、グリフィンは心地よさそうに頭をあげている。2本ずつ描かれた植物も、葉が赤と緑交互になっているが、それぞれ高さや揺れる様子が異なっており、自由に表されている。
スフィンクスは、カールしたたてがみ、渦巻とロータス文が左右に配された肩と、非常に装飾的だ。
その下は、アラバスターの縞模様だろうか、色彩豊かに表されている。
エヴァンスは「王座の間」の北側の壁に据えられた石膏石製の椅子に「祭司を兼ねた王」が座したのであろうとみて、この部屋を「王座の間」と名づけた。椅子とそれを取り囲むベンチは、発掘された時も今日われわれが目にしているのと同じ状態であった。おそらく「祭司-王」が王座に、祭司たちがベンチに座したのであろうという。
腰掛けは左右のベンチよりも高く、足などは浮彫されている。背もたれは非常に薄い板が貼り付けられているか、ある程度の厚さの板を嵌め込んでいる。
エヴァンスは「王座の間」の椅子と同じ形の木製の椅子を控えの間に設置しているという。
腰を置く部分が凹ませてあり、座り心地が良さそう。足元は獣足になっていることが多いが、この椅子はそのような王の威厳を示すものは何もない。

宮庭から西翼の北側を眺めると、北から18王座の間、17大階段、20三円柱の礼拝所と並んでいる。

17 大階段
オリジナル部分は下から4段のみであるが、かつての大階段には広い踊り場があった。踊り場までの下段は上段よりも幅が広く、下段の中央には屋根を支える円柱が立っていた。円柱の基台は今も残っているという。
確かにあった。
『ギリシア美術紀行』には、エヴァンスの復元図から起こした図があった。
上図によると、この屋根が架かった広い場所で、20三円柱の礼拝所は中央部分だけのようだ。
20 三円柱の礼拝所(三部構成の祭室)
大階段のすぐ左側には、正面入口に3本の円柱が立っていた礼拝所があった。円柱の基台の跡は明瞭で、中央の基台が両側よりもやや高くなっている。円柱で支えられた屋根の上には「聖なる牛の角」が並んでいたという。

三部構成の祭室のミニチュア・フレスコ(模写、部分) ミニチュア・フレスコの聖所出土
『ギリシア美術紀行』は、祭室といっても、ファサードだけで構成されているところから、祭儀が執り行われたとすれば、中庭それ自体においてであったろう。三部構成のうち一段高い中央の壁龕に1本の円柱、左右の壁龕にはそれぞれ2本の円柱が容れられ、それらの柱を聖なる牡牛の角が支えている。屋根にも少し小さな角が所狭しと並べられている。これだけの祭室ということになれば、円柱か角、特に構成から見て、円柱がなにか宗教的に意味あるものを象徴しているものと理解せざるをえないという。
この図はエヴァンスの復元立面図であるが、上のミニチュア・フレスコとは円柱の数やそれを支える牡牛の角も異なっている。
三部構成の祭室の内西側には、次の3つの部屋があったという。

21 控えの間
宮殿が最終的に破壊された時の火災の跡がはっきりと見てとれる。ベンチのと壁の一部が黒ずんでいるという。

22 背高ピソスの部屋
新宮殿期初期に属する細身で上背のあるピソス(貯蔵用土器)が見つかったという。


23 宝物保管室
部屋の床下に埋め込まれていた石製の宝物箱の中に、ミノア時代の像の中でも最も有名な「蛇女神」の像が収められていたという。


続いて2つの開口部の復元された遺構24と、発掘時のままのような遺構25が続く、その奥には11南公式入口の階段踊り場が見えている。

24 粘土板文書保管所
線文字Bが記された粘土板文書が多数見つかっているという。


25 レア神殿
ギリシャ時代の神殿があったことが明らかになっているという。

ミノア文明期のものではないので、復元されていないのだろう。
続いて南公式入口の白い円柱と角柱のある部分、そしてそれより中央側には回廊だったところが天井付きで一部残っている。

26 回廊
南へ伸びる。「行列の回廊」と連絡していた。ここを通って中央宮庭へ入るのが正式なコースであるという。

この回廊内で、「祭司-王」あるいは「ユリの王子」と命名された有名な浮彫壁画の一部が見つかったという。
コピーとはいえ、時間がなくて近づけなかった。その奥にはユクタス山が聳えている。
ユリ王子の壁画 前1550-1500年頃 彩色漆喰 高さ2.1m イラクリオン考古博物館蔵
若者はユリと孔雀の羽で飾られた冠をかぶり、ユリの首飾りをつけ、ベルトで留めた簡単な腰布を身にまとっているという。

現在は砂地になっている中央宮廷から南側を眺める。天井付きの行列の回廊以外に遺構は見えない。
中央宮廷から眺めると、東翼に見えるのはこの屋根付きのところだけ。

27 大階段
東翼は地階を含め5階建てであった。東翼の各階は大階段で結ばれていた。大階段の1階の踊り場は中央宮庭とほぼ同じレベルにあり、1階と地階をつないでいる曲折した階段は下半部のみがオリジナルで、上半部は復元されているという。
この四角形のものが大階段。

この階段を下って中央宮廷から王家の住まい(ロイヤル・アパートメント)へ入るのが公式ルートであったが、これとは別に日常生活に使用される階段も設置されていた。
吹き抜けになっている「明かり採り」の周囲に配置された柱列から光りが入るので、近いの見通しはかなり良い。光りと新鮮な空気を室内に取り入れ、しかも夏には暑さをやわらげ、冬には冷気を遮断する卓越したシステムであるという。
手前の階段を下り、柱廊を通って同じ側にある階段を下りてその下の階に行くという風になっていたようだ。
柱廊の壁面には、ミケーネで見た8の字形楯のようなものと、連続渦巻文の文様帯が描かれている。
アテネ考古博物館にあった8の字形楯との違いは、上に丸いものが付いていないことだ。
だが、実際にこのようなフリーズと楯が描かれていたのかどうかは判然としていない。この時代の楯は牛皮が張られていたので今に残っていない。「イリアス」には7枚皮の楯と記されているので、当時の楯には7枚の皮が重ねて縫い合わされていたのだろうという。
ミノア文明期は平和で城壁もなかったというのに、王の私的な空間に楯が描かれていたとは考え難い。
『古代ギリシア遺跡事典』は、後期ミノアⅠB期の末(前1490年頃)には、北方のギリシア本土で興隆してきた戦闘的なミケーネ文明の人々がクレタ島に侵攻し、各地の宮殿を焼き払ってしまった。そのなかにあって、クノッソスはミケーネ文明の人々による支配の拠点として改装されたうえで、引き続き宮殿としての機能を果たすことになったらしいという。
これはミケーネ時代の壁画を復元したものだろう。
大階段の南側遺構。
正面の階段は日常生活に使われる階段かな。この下に、王妃の間、王妃の浴室などがある。
続いて清めの場や双斧の礼拝所の上階かな?
その間に排水システムの遺構がのぞいている。

そして中央宮廷の北側
西翼2階から見えた北入口の見張り所(右)と、清めの場(左)の遺構が見えている。

     
   クレタ島2 クノッソス宮殿2←      →クレタ島4 クノッソス宮殿4 

関連項目
アテネ国立考古博物館 ミケーネ3 瓢箪形の楯は8の字型楯
クレタ島1 クノッソス宮殿1
クレタ島5 クノッソス宮殿5
クレタ島6 イラクリオンを海辺まで街歩き

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「名画への旅1 美の誕生 先史・古代Ⅰ」 木村重信・高階秀爾・樺山紘一 1994年 講談社