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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年4月21日月曜日

アテネ、アクロポリス2 パルテノン神殿


プロピュライアから入ったアクロポリスの丘の上は、右にパルテノン神殿、左にエレクテイオンがあり、目の前には、観光客が歩き回ってつるつるにしてしまって滑り易い岩場が広がっていた。そして各地に神殿などの部材が置かれていた。
アクロポリスの平面図
様々な神殿があったようだが、この辺りは勾配があるためか、パルテノン神殿への参道となっているためか、もともと建物はなかったらしい。

『古代ギリシア遺跡事典』は、前6世紀に入ると、アクロポリスには青銅や大理石の奉納像が立ち並ぶようになった。
しかし、アクロポリス上に初めて大規模な神殿が登場したのは、前6世紀半ばのことだったらしい。アクロポリス博物館に展示されている蛇の下半身をもった「青ひげ」や牛を襲う「ライオン」などの破風彫刻は、この最初のモニュメンタルな神殿を飾っていたと考えられている。問題は、ヘカトンペドンと呼ばれるこのドーリス式の神殿がアクロポリスのどこにあったかという点であるが、決定的な証拠はないものの、アクロポリスの南側、後のパルテノンの場所が有力視されている。
前489年、前年のマラトンの戦いに勝利したアテネは、アテナ女神に感謝すべくアクロポリス南側に基壇を構築し、総大理石製のモニュメンタルな建築物の工事にとりかかった。これが古パルテノンである。これは、同時に建造が進められていた古プロピュライアともども、前480年のペルシア軍の侵略に際して未完のまま破壊された。
ギリシア人は翌年プラタイアにおいて、ペルシア軍の暴虐を忘れないために、破壊された神殿は再建しないことを誓った。しかし、前449年にカリアスの和約が結ばれてペルシア戦争が公式に終結すると、この誓いは効力を失ったらしく、アクロポリスではペリクレスと彫刻家フェイディアスの主導のもと、堰を切ったような建築ラッシュが始まるという。

パルテノン神殿 基壇上部幅30.88m長さ69.53m 円柱高さ10.43m 南北8本、東西17本の周柱式
同書は、パルテノンが着工されたのは前447年のこと。前438年には祭神像が納められたが、最終的に破風彫刻まで完成したのは、前432年のことだったという。

西側
『ギリシア美術紀行』は、歴史的民族的に本土に残ったイオニア民族としてのアテナイ人は、軽快清楚なイオニア様式を実際の建築部分(西の間の4柱はイオニア式の柱といわれ、また内室の外壁上端を一周するイオニア式のフリーズは特に顕著なものである)に、またその精神において採り入れた。精神においてとは、すなわち、東西面それぞれ8本、南北17本の周廊の柱にすんなりとしたプロポーションを与え、さらに、それらが支える上部構造を低く平たい、したがって非常に軽い印象を与えるものに変質させたことである。しかし外観は基本的にはすべてドーリス式神殿形式を保持しているため、軽やかではあるが、印象神殿が与える飛翔するような、水平方向に滑るような印象はないという。
そういわれても、こんなに足場が組んであっては・・・
同書は、屋根の荷重はトリグリュフォンから露玉(グッタエ)をもつレグラへ、柱頭のアバクスとエキノスへ、さらに荷重と支力の均衡の表現である柱のふくらみ(エンタシス)へと確実に導かれるという。
そういわれると、円柱の真上には浮彫のあるメトープではなく、必ずトリグリフが置かれている。
この浮彫が、さきほど『ギリシア美術紀行』で記述されていた内室のフリーズ。
同書は、いまだにパルテノンの現場に残っている西面(但し石板Ⅰ、Ⅱは大英博物館)。
パルテノンはほぼ9世紀間アテナの神殿として存続した後、ギリシア正教の教会堂ハギア・ソフィアに改造された。それからまた約1000年後の1458年に、トルコ人の侵入と共に回教徒のモスクに改築された。パルテノンが決定的に破壊されたのは、1687年、ヴェネツィアの将軍モロシーニの軍隊による砲弾が、火薬庫としてトルコ人に使用されていた神殿に命中、特に中央部が爆破されたのである。また1800年頃活躍したイギリスの第7代エルギン伯爵トーマス・ブルースによって、散乱していたり、取りはずし可能な彫刻類が、当時荒廃の極みに達していたアクロポリス山上から運び出され、それが現在、大英博物館の至宝、「エルギン・マーブル」となっていることは人の知るところであるという。
岩盤を削ってつくられた基壇。
北の方は低い。そのため、神殿床面(ステュロバテス)までは別の部材になっている。
北側
『古代ギリシア遺跡事典』は、その北側を東に向かって見通すならば、基壇のラインが中央部で僅か上にふくらんだ曲線を描いていることに気がつくだろう。これらすべての工夫があいまって、パルテノンに均整のとれた安定感を与えているのであるという。
2013年現在は、北側は補修のための石材が置かれていて、基壇のラインは見えない。
北側と東側
地面は相変わらず整地されていない。
同方向からの想像復元図
プロピュライアの石を何段かに刳った格間がパルテノンにもあったのだろうか。
『THE ACROPOLIS THROUGH ITS MUSEUM』の想像復元図によると、石材や木材の格間天井だったようだ。


東正面
ギリシア神殿の正面は東側。
『古代ギリシア遺跡事典』は、よく注意して見れば、円柱の間隔が均等ではなく、それらが僅かに内傾していることが見てとれるはずであるという。 
両端の2柱の間が短く、柱の下部の間隔と、上端のそれを比べると、上の方がすぼんだ風に見える。
東側南部のメトープ及び破風の彫刻(模刻)

南面へ
修復のための事務所?や重い石材を運ぶ軌道などがある。
事務所?は長々と続いており、壁に様々な説明パネルがかけてある。
南側の西端にきて、やっと神殿が床面から見ることができた。
みんながのぞいているので来てみると、神殿の南西前に、小さな切石と薄い焼成レンガが交互に重なったところがあった。かなり深そう。
下の方にはレンガはなく、狭い階段があった。水の溜まる場所だったのかな。
パルテノン神殿を一周。

     アテネ、アクロポリス1 プロピュライア
                 →アテネ、アクロポリス3 エレクテイオン神殿

関連項目
ペロポネソス半島2 コリントス遺跡8 アポロン神殿
アテネ、アクロポリス4 周囲を眺める
アテネ、アクロポリス5 南麓のディオニシオス劇場
アテネ、アクロポリス6 ヘロデス・アッティコスの音楽堂
アテネ、アクロポリス7 新アクロポリス美術館1
アテネ、アクロポリス8 新アクロポリス美術館2
アテネ、アクロポリス9 新アクロポリス美術館で夕食

※参考文献
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集4 ギリシア・アルカイックとヘレニズム」 1995年 小学館
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「THE ACROPOLIS THROUGH ITS MUSEUM」 PANOS VALAVANIS 2013 KAPON EDITIONS