お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年5月1日木曜日

アテネ、アクロポリス6 ヘロデス・アッティコスの音楽堂


ディオニュソス劇場を見終わってもまだ時間があったので、アクロポリスの丘に登る途中で見えたヘロデス・アッティコスの音楽堂にも行ってみることにした。
見学路はディオニュソス劇場の左(西)脇を登り、アーチ列の奥へと続いている。

すぐにアクロポリスの丘から見下ろしたアスクレペイオンの遺構がある。
後1世紀頃のプラン(5世紀中葉にはバシリカが造られた)。
『世界歴史の旅ギリシア』は、医神アスクレピオスに捧げられた神域。アスクレピオスの祭祀は、ペロポネソス戦争開始直後に疫病が流行した際、エピダウロスから導入された。神域には神殿と祭壇、アバトン(お籠もり堂)、聖なる泉があったという。
①ドーリス式列柱廊(ストア) ②聖なる泉 ③聖なる井戸 ④アスクレピオス神殿 ⑤祭壇 ⑥プロピュロン(前門) ⑦列柱廊 ⑧イオニア式列柱廊 ⑨アルカイック時代の泉 (『South Slope of the Acropplis』(以下『South Slope』)より
同書のアバトンがどれに当たるのかわからない。
エピダウロス遺跡にあったアバトンはかなり大きな列柱廊だった。ひょっとすると⑦の列柱廊だろうか。
エピダウロスのアスクレピオスの神域についてはこちら

こちらは神域の右奥にある①ドーリス式ストアの西端の遺構。説明板によると二階建てで、上下それぞれ17本の円柱が立っていたらしい。
右側に⑥プロピュロンがあったというが、何も残っていない。
それ以外の遺構はほとんどわからなかった。
南側には白い列柱の跡が並んでいる。エウメネスの列柱廊かな。

やがて見学路は右方向へ。左前方に低い洞穴のようなものが見えてきた。下図で見ると貯水池の一つらしい。
石板には「アルカイック期の泉の境界石」とある。
上図の⑧イオニア式列柱廊だろう。
『South Slope』は、アスクレペイオンの西部分の大きな建物は、前5世紀、おそらくアスクレペイオンよりも前に建てられた列柱廊(ストア)だった。前5世紀後半または前4世紀に、イオニア式のファサードを付け足して再建された。そのペブル・モザイク床のある4つの部屋は、ベッドがあり、患者か、アスクレペイオンの祭司たちを住まわせていたという。
そのモザイクはどんなものが表されていたのだろう。

説明板を見ると、
①エウメネスの列柱廊 ③古代ペリパトス通り ⑤記銘(「アルカイック期の泉の境界石」という石板のことかな?) ⑥ナイスコイ ⑦貯水池 ⑧アルカイック期の泉 ⑨アスクレペイオンからの出土品 ⑩青銅の鋳造所 ⑪多角形の壁 ということだ。

プレートにテミス神殿?とあるが、上図の⑥ナイスコイの右隣の建物になるはず。
奥の岩陰に⑦ビザンティン時代の貯水池。
⑨アスクレペイオンの出土品かとも思ったが、左に壁があるので、これがナイスコイなるものらしい。
壁の向こうには、コンクリートの枠で囲み、平たい屋根を付けて、厳重に保護されているところがあった。
間からのぞいてみると、斜めの溝のようなものがある。どうやら⑩青銅の鋳造所跡の一つらしい。
透明な屋根の架かったところの西側にはもっと広範囲に囲んだとこがあった。いずれここも屋根で覆われるのかも。
説明板の図解
屋根が架かっている方は、先史時代とクラシック期の鋳造所だったようだ。


そしてやっとヘロデス・アッティコスの音楽堂に着いた。
『世界歴史の旅ギリシア』は、アクロポリスの南西の斜面には、ローマの執政官も努めた富裕なギリシア人ヘロデス・アッティコスが妻の死を悼んで161年に建築した音楽堂が修復されているという。
間近で見ると、全体を写せない。
そのつづき

同書が、現在は夏のフェスティバルで、演劇やコンサートの会場として利用されているというように、そのような仕様になっている。
見上げるとアテナ・ニケ神殿の南面が迫っていた。せっかく修復されても、近づけない神殿だ。

同じ通路を通って戻ってくると、長々と続くエウメネスのストアは、とても見学している余裕のない時間となっていた。
同書は、前2世紀にペルガモンのエウメネス2世が建造した列柱廊という。
アクロポリスの斜面を利用して造られていた。道理で見学路からはよく見えなかったわけだ。
ヘロデス・アッティコスの音楽堂とディオニュソス劇場の間に長々と続いていたようだ。32mという。

その南東の四角いものは、ニキアスの合唱隊記念に建てられた遺構跡。
エウメネスのストアとニキアスの合唱隊記念の建物の想像復元図
なんと、青銅の鼎のようなものが載っている。
『South Slope』は、前319年頃、ネアヒモスの第一執政官にあったニコデモスの息子ニキアスによって建てられたという。 
ヘレニズム時代になっても、青銅の鼎を神殿の棟飾りにしていたとは。
オリンピアのゼウス神殿(前5世紀中頃)の想像復元図にも青銅の鼎が載っている。それについてはこちら

そして出入り口へと向かう道にも遺構があった。ハセキの壁というらしい。
同書は、1778年、トルコのハジ・アリ・ハセキによって造られオスマン朝の城壁。様々な遺構から集めたものが使われているという。
他の遺構と比べると、ごく最近のものだった。

   アテネ、アクロポリス5 南麓のディオニシオス劇場
                →アテネ、アクロポリス7 新アクロポリス美術館1

関連項目
エピダウロス2 アスクレピオスの神域
ペロポネソス半島5 オリンピア5 ゼウス神殿
アテネ、アクロポリス1 プロピュライア
アテネ、アクロポリス2 パルテノン神殿
アテネ、アクロポリス3 エレクテイオン神殿
アテネ、アクロポリス4 周囲を眺める
アテネ、アクロポリス8 新アクロポリス美術館2
アテネ、アクロポリス9 新アクロポリス美術館で夕食

※参考文献
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
「THE ACROPOLIS THROUGH ITS MUSEUM」 PANOS VALAVANIS 2013 KAPON EDITIONS
「South Slope of the Acropplis」 Kaiti Kyriakopoulou  Association of Friends of the Acropplis