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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年6月1日月曜日

サマルカンド歴史博物館1 ソグドの人々の暮らし


アフラシアブの丘にはサマルカンド歴史博物館がある。
博物館は1階の中央を囲む3室と2階にアフラシアブの丘の出土品が展示されている。

まず入った部屋の隅にアフラシアブの丘の模型が置かれているのに注目。
次に壁面には発掘当時の様子が大きな写真で紹介されてい。
現在の風雨にさらされて、傷んだ遺構とはかなり違っていた。

遺物の出土状況
おそらくサーマーン朝(9-10世紀)のもので、土器とテラコッタの壁面装飾

土器および日干レンガ 前8-6世紀 要塞出土
いわゆる煉瓦の形ではなく楯のような形状をしている。とは言っても、楯の形は様々なので、断定はできない。
日干レンガを積み上げた厚い壁の表面に貼り付けるような、仕上げ材だろう。

窯の模型 前5世紀
焚き口かな。

そして、アレクサンドロス大王の侵攻とヘレニズム時代(前3-2世紀)
下の板状の印のある日干レンガは、以前のものと変わらない。
別の壁面にはコインも

その時代の遺跡分布
要塞の模型
上向きの矢印型矢狭間(前3-2世紀)
煉瓦の積み方は今と変わらない。

祭壇 後2-3世紀
火を崇拝する人々の炉という説明がある。
民家の平面図
右下がゾロアスター教の祭壇のある部屋

祭壇のある家 出土品による再現 7世紀後半
説明板は、水の儀式では、祭壇の上と、部屋の真ん中にある炉の中で行われた。火の儀式は灯りを点した。多産と先祖崇拝であったという。
手前の土でつくられた2つの小さな炉には炭が入れてある。
火は燃え続けた。 燃料は炭でも何でもよかったという。
オスアリに死者の骨を納めるのは、中央アジアのゾロアスター教の葬送儀式につながるという。

3つ目の部屋
マイルストーン 6-7世紀
平たい円盤状のものでは目立たないのでは。中心の穴に棒を差し込んで、目立つものをつけていたのでは。
ソグド人の時代でも城壁は同じような形の日干レンガで造られていたようだ。
コイン ホスロー2世 590-628年
裏にはゾロアスター教の炉とその両側に2人の神官が表されている。

保存用の壺類
続いてオスアリ(骨蔵器)のコーナー
オスアリ(またはオッスアリ)については後日

同書は、アフラシアブで年代と異なる発掘が行われた際、9世紀から12世紀の大量の陶器が発掘された。これらはサマニドー族時代とカラハニドー族の時代の文化の陶器であったという。
サーマーン朝とカラハーン朝時代の陶器を見逃したとは残念。

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関連項目
ソグド人の納骨器、オッスアリ
アフラシアブの丘が遺跡になるまで
サマルカンド歴史博物館3 宮殿の壁画1
サマルカンド歴史博物館4 宮殿の壁画2
サマルカンド歴史博物館5 宮殿の壁画3

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社