お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年7月30日木曜日

ビビ・ハニム・モスク2 主モスク


ビビ・ハニム・モスクの広大な中庭の奥に、主(大)モスクがある。

モスクのドームは全く見えない。

『シルクロード建築考』は、チムール軍は向こうに敵なし、殆ど各国を征服して多くの戦果を却掠しつつ南へ西へと、攻略の進軍は瓦礫を越えて、まさに意気軒昂の勢いであったに違いない。これらの戦いの際、夥しい数の捕虜となった建築の職人たちは、サマルカンドの大寺院建設のために、各地から送られて連行された。シリアの石材技術にすぐれたアレッポやダマスクスの石工、アナトリア地方の石造築城に評価の高いシヴァース、カイセリの工人たち。中でもホラサーン(イラン東北)のトゥースやメシュド、イスファハーンの大寺院なども見知った、経験の多い工匠たちであったろう。
建築文化の都市タブリーズに建てられたイラン最大の煉瓦造アリー・シャーの大宮殿建造にも関連した職人たちは、たとえ修理の経験であったとしても、きっとビビ・ハヌィムの大寺院建設(1398-1405)にはその知識が大いに活用されたことだろう。各地の手法が見られ、ビビ・ハヌィムの大寺院が中央アジアの装飾手法の集大成といわれているのも当然であるかも知れないという。

ファサード頂部全体に修復が多い。
アラビア文字の銘文の箇所はモザイク・タイルだが、一重の蔓草の渦巻が小さく、オリジナルではなさそう。
イーワーンのバンナーイ(焼成レンガの地に色タイルを嵌め込んで幾何学文様を構成したもの)は、濃い箇所がオリジナル。
その下のイーワーンのアラビア文字の銘文はオリジナルのモザイク・タイル。
更に下、には石のにアラビア文字の銘文を刻む。これが「ここに入る人は、平和にいる」という銘文かな。
その下には、植物文の浮彫のある変形六角形の焼成タイルと、モザイク・タイルが組み合わされている。
本来は入口だったのに、木の透彫で閉じられている。その隙間にレンズを入れて撮影。
その影

ドームへの移行部は複雑、というよりも正方形、八角形、十六角形、円形へと移行して、内部のドームが造られ、その上に筒状の箇所、外ドームが載るのだが、内ドームがなくなって、本来は見えないところが見えているのでは。
その下
マッカ(メッカ)の方向はサマルカンドでは西側、礼拝室の奥壁にミフラーブがある。
ミフラーブとその上の小窓を囲む浅いイーワーンを囲む部分にはフレスコ画による花文や、アラビア文字の文様帯が残っている
その右側
ミフラーブのムカルナスやその周りも、タイルではなくフレスコ画による細かく仕切られた文様で埋められている。
南壁に小窓と壊れた開口部があるため、内部はそこそこ明るいのだった。

入口脇にはモザイク・タイルの植物文。このモスクでは数少ないモザイク・タイルなのに、土埃でよく見えない。
頂部の方は汚れが少ないが、遠い。
腰羽目には大理石と色タイルで幾何学文様。これもモザイクではある。
こちらの方は修復されたもの。
モザイク・タイルの付け柱と石材の基礎。
右にぐるりと回り込んで、やっと主モスクのドームが見えた。
『イスラーム建築の世界史』は、ドームには従来の二重殻ドームよりさらに内殻と外殻とを大きく乖離させた二重殻ドームを用いることで、室内は従来通りの高さながら、外側は高いドラムの上のドームを際立たせているという。

そして、外に出て北隣のシヤブバザールから、やっと3つのドームを見たのだった。
建物自体よりもドラムとドームを合わせた高さが際立つのが良かったのかな。
三日月はわからないが、金色の球が二つ、ドームの上を飾っている。
それよりも気になるのは、青いドームに草がたくさん生えていること。

       ビビ・ハニム・モスク1 外観と中庭
                   →ビビ・ハニム・モスク3 南北のドームのある部屋


関連項目
ウズベキスタンのイーワーンの変遷
イーワーンの変遷
ドームを際立たせるための二重殻ドーム

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術