お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年11月18日水曜日

ブハラ旧市街で街歩き3 タキ・サラフォン界隈 




⑭ マゴキ・アッタリ・モスクの南側を通り、
タキ・サラフォンへ。
マゴキ・アッタリ・モスクの外観を眺めた後では、キャラバンサライ跡の遺構のことはすっかり忘れていた。


⑮ タキ・サラフォン 16世紀
『中央アジアの傑作ブハラ』は、ここでは外国の通貨を両替する両替商が並んでいた。トキ・サッラフォン・ドームは、20世紀の初めに、昔の形を維持しながら再建されたという。
現在残っている3つのタキの中では一番小さい。
同書は、八角形の建物の中の幅は8.5mであるという。
修復されているので、すっきりとしているが、当初はどんなだったのだろう。
四隅のスキンチ部分が店舗の入口になり、そこからムカルナスというよりは三角形の曲面となっている。

東への道を行く。地図にもあるように、西方の城壁内側にある貯水池へと流れ込むシャフルッド川がタキの地下を通り、その外は道路に沿って東へと続いている。その南側には店舗が並んでいて、土産物屋というよりも、ブハラの住民が利用する店が並んでいた。

⑯ ナディール・ディヴァンベキのハナカ 1619-20年
同書は、1619-20年に、イマクリ・ハンの大臣であったディヴァンベキの命によって、マゴキ・アッタル・モスクの東にスーフィー派のハナカ(修道院)が建設された。これはドームの下の十字形のホールと各角にフジュラがある大規模な建築物である。その高い入り口の両側には、中に階段のある塔がある。ミヒラブは、色が付いた鍾乳石で飾り付けされているという。
ドームは上空から撮影した同書の図版に写っていた。
この下に内接十字の空間があるという。

ナディール・ディヴァンベキのハナカのファサードを見ようと歩を進めていると、大木があった。
1477年に植えられた桑の木とガイドのマリカさんが言っていた。既に枯れているようだが。
かつては桑の木がたくさんあったはずの日本で暮らしながら、桑の木を最初に見たのは10年前のトユク溝、次に見たのは今回のウズベキスタンだった。

池の東側まで行くと、ナディール・ディヴァンベキのハナカの正面が見えた。
同書は、入り口の上のところにあるモザイクの碑文は、ほとんど消えてなくなり、20世紀に復元されたという。


⑰ リャビ・ハウズ 1620年頃
同書は、リャビ・ハウズ(池の岸辺)は有名な観光スポットである。それは中世のブハラの最も大きい人工的な貯水池である。貯水池の大きさは45.5X36m、深さは5mである。これは、シャフルッド川(王様の川)から流れてくる4千㎥以上の水を蓄えられる池である。リャビ・ハウズには、ブハラの人々が水を取るための石の階段がある。貯水池は、1620年頃にハンの大臣のナディール・ディヴァンベキの命で造られたという。
水鳥が泳いでいるのは良いのだが、何故かカリャン・ミナレットやサーマーン廟の模型のようなものが浮かんでいるのだった。鳥の餌場?

リャビ・ハウズを過ぎると公園になっていて、北側にもメドレセがある。

クカルダシュ・メドレセ
同書は、ケカルダシュ・メドレセは、アブドラ・ハンⅡの治世に建設されたもう一つの建物である。このメドレセに、クルババ・クケルダシュの名前がつけられている。クルババ・クケルダシュは、このメドレセを建設したハンの大臣の名前である。その面積は86X69㎡であって、これはブハラで最も大きいメドレセの一つである。このメドレセには2つのイーワーンがある中庭の周りに二階建て160のフジュラ(生徒のための部屋)がある。
正面には、玄関ホール、モスク、および教室(ダルスハナ)があるという。

公園中央にはホジャ・ナスレッディン記念碑。
同書は、伝統的・国民的な英雄であるホジャ・ナスリッディンの記念碑は、20世紀にメドレセの庭に置かれたという。
様々な逸話の残る伝説の人物ということだったが、今では子供たちの遊具。

⑱ ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ 1622-23年
同書は、ナディール・ディヴァンベキは、リャビ・ハウズの東岸に隊商宿を建てた。そのオープニング・セレモニーで、イマムクリ・ハン大臣の「神に捧げた」建物の建設を褒めて、強制的にメドレセに変換させたのである。そのため、このメドレセには、モスク、教室、及び中庭のイーワーンがない。入り口のアーチには、太陽に向かって飛ぶ空想上の鳥の絵が描かれているという。
これが太陽。
太陽は、サマルカンドのシルドル・メドレセのファサードのモザイクにもあったが、それは1636年に造られたものなので、こちらの方が先だったことになる。
中央アジアでは、イスラームの戒律が緩やかだったので、このような動物が表されたのだとか。
2色の蔓草が渦巻いている。
鳥に捕らえられているのは羊。蔓を食んでいるみたい。

この日はメドレセの中庭で、民族舞踊の夕食。
前菜の取り皿はパフタ柄とは言いながら、白い部分が青っぽいし、金の線もない。
是非買って帰りたいと思っているが、綿の花柄は同じでも、品質はいろいろあるようで、気をつけて買わないと。
楽団のおじさんたちが挨拶。
民族舞踊と、
民族衣装をアレンジしたファッションショーが交互に続くが、食べながらでは撮影が難しい。
日本人の間では、右奥の若いモデルが、顔が小さくて9等身ということで注目される。
みごとな衣装の翻りよりも、このモデルの顔に目が奪われる。
衣装や帽子も可愛いが、これを日本で着るのはどうもという服を着て登場する。
その9等身の子。やっとピントが合った写真。

      ブハラ旧市街で街歩き2 タキ・テルパック・フルション界隈

関連項目

マゴキ・アッタリ・モスク
ブハラ旧市街で歩き1 タキ・ザルカロン界隈

※参考文献
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年