お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年11月9日月曜日

ミリ・アラブ・メドレセ


カリャン・モスクの向かい側にミリ・アラブ・メドレセがある。

『中央アジアの傑作ブハラ』は、カリアン・モスクの真正面には現在も活動しているミリ・アラブ・メドレセがある。このメドレセは、1535-36年に建設され、5世紀にわたって機能している。ソ連時代に中断されてから20年後、メドレセは1945年再び運営を開始した。
モザイクで装飾された、その厳然とした正面は、カリアン・モスクの位置より高い台地に横たわっている。その両側には、2階建てのロッジアがある。コーナーホールの上には、ターコイズのドームがある。それらの高い筒状のドラムは、エピグラフィック・テキストを示すモザイクで装飾されているという。
ファサードのイーワーンは、頂部が3つの大きなムカルナスで、半円形の平面を構成している。
現在もメドレセとして使われているので、内部の見学はできないが、扉口の中までくらいなら良いとのこと。
16世紀のものなので、今まで見てきたタイル装飾とは異なった文様となっている。

平面図には丸い空間がたくさんある。
同書は、ミリ・アラブ・メドレセの面積は73X55㎡である。4つのアイワンで構成されるメドレセの中庭の面積は37X33㎡である。二階建てのフジュラの総数は111室である。建物の設計は、非常に複雑であり、多数の階段、通路、中二階、および袋小路の廊下を含んでいるという。



同書は、その正面の中央には、準八面体アーチがある高い入り口があるという。
扉口から入ると、その通りの、不思議なドームがあった。白い稜線が美しい幾何学文を浮かび上がらせている。
稜の立ったドームは焼成レンガで造られていて独特。16世紀ともなれば、薄い焼成レンガを積み上げて、こんなドームも造ったのだ。
四隅の大きなムカルナスや、下部の広く平たい尖頭アーチからアーチ・ネットが立ち上がり、20の頂点が形成され、その上にドームが載っている。
ムカルナスから立ち上がるアーチ・ネット。

尖頭アーチには六角形と6点星の焼成レンガを組み合わせた文様帯。
そして、尖頭アーチの向こうには梁を密に並べた天井で、その先は行き止まり。
同書は、南ホールに、教室とモスクがあるという。

同書は、北の方には、ミリ・アラブ(アラブ人の王子)首長とウバイドラ・ハンの共同墓地がある。
メドレセの建設工事費は、ウバイドラ・ハンによって連れて行かれた3000人の捕虜を奴隷として売却し、ブハラのイスラム教徒の長であったミリ・アラブに渡された資金である。イエメンから来たサイッド・シャムスッディン・アブドラ・アル・アラビーは、ミリ・アラブと呼ばれていたのである。1480年代に、ミリ・アラブは、中央アジアに移住し、ホジャ・アフロルの弟子になった。彼は、モハメド・シャイボニー及びウバイドラ・ハンの宮廷で権力を持っていたという。
その内部。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、教室は建造物の3つの角にあり、4番目の角はウバイドラ・ハンとミリ・アラブの共同墓地である。イエメンスタイルの木製の墓石があるハンの墓はミリ・アラブ首長の足側に位置する。正面の中央の入り口には、半八面体のアーチがあるという。
この木彫の素晴らしい棺はイエメン風のものだった。
外から見ると、この上に青いドームが聳えている。
外から見ると、このドーム。


さて、今でもメドレセとして使われているので、この先には立ち入る事ができない。せめて、編み目の間から、中庭を写真にでも収めよう。

フジュラ(学生寮)の上部には二重に渦巻く蔓草文。
こちらには異なったモティーフの二重に渦巻く蔓草文。

カリャン・ミナレットからはこんな風に見えるらしい。

その後、ミリ・アラブ・メドレセの北壁沿いに東へ向かう。道脇にはパフタ柄の茶碗などが並んでいたが、質が良くなかった。

前方のドームのたくさんある建物はタキ・ザルカロン。

                カリャン・モスク


関連項目
ウズベキスタンのイーワーンの変遷
カリャン・ミナレット

※参考文献
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 アレクセイ・アラポフ 2010年 
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版