お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年2月18日木曜日

メルヴ6 スルタン・サンジャル廟


メルヴの広大な遺跡のほぼ中央、スルタン・カラにスルタン・サンジャル廟がある。
『旅行人ノート⑥』は、11-12世紀にはセルジュークトルコの首都がここに置かれ、東方の真珠といわれるバグダードに次ぐ、第2のイスラム都市として最盛期を迎えた。しかしモンゴルのチンギス・ハーンの侵攻の際に全てが破壊され、老若男女を問わず、住民は皆殺しにされた。その後メルヴは数世紀の間、住民のいない土地になり、18世紀に一時この地方の支配者バイラム・アリ・ハーンが町を再建したものの、1795年、ブハラのアミールにより完全に破壊されたという。

城壁は崩れながらもまだかなり残っている。一度城壁の外に出たが、城壁よりも高いので、スルタン・サンジャル廟はあちこちから見えた。
川を渡って、
スルタン・カラの城壁の角
それに続く城壁を見ている内に広大なスルタン・カラに入り込んでいた。
遺跡図

スルタン・サンジャル廟 Mausoleum of Sulatn Sanjar 1086-1157年 高さ38m
『旅行人ノート⑥』は、38mの高さを持つ12世紀のセルジュークトルコ時代のスルタン・サンジャールの廟。奇跡的にモンゴルの破壊からまぬがれたという。
『LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES』は、建築家ムハンマド・イブン・アジズ・セラフシによって建てられた。
階上廊が上部をめぐる立方体の建物は、二重殻ドームを頂いている。階上廊は焼成レンガと浮彫石膏の組み合わせの装飾があるという。
ピーシユターク(門構え)もなく、ドームと立方体の簡素な形の廟というと、ブハラのサーマーン廟(943年以前)が思い浮かぶが、そこにも階上廊がめぐっていた。その系譜にある廟ということになるが、その間にドームは二重殻となり、階上廊も二階建てのように見える。
現在はかなり修復されているのでドームも立派だが、パネルには1890年当時の外観の写真があった。
外殻ドームがなくなり、内側のドームが露出している。
西側が正面
補強のための丸太の切り口がたくさん露出している。
上部には修復されたものだが、焼成レンガによるアラビア文字の銘文帯や、尖頭アーチには幾何学的な浮彫装飾がある。

内部のドームは、スキンチで正方形から八角形をつくらずに、すぐ上に十六角形を造って円形へと移行している。
スキンチと平面の尖頭アーチの間に
小さなムカルナス状のものをつくり、その上に十六辺の一つがおかれている。
スルタンの棺は広い廟の中央に置かれていた。
廟の内壁には幾何学の文様帯や隅飾りが描かれているが、見慣れない文様だ。
『LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES』は、内部は、幾何学文様とアラビア文字が、白色を背景に青と赤で描かれているという。
入口側を振り返る。
実はこのフレスコ画が古いものには見えなかったのだが、修復時のものであっても、創建時に描かれたものだった。

左右の壁には同じ大きさだが開口部のないイーワーンがあって、上部には焼成レンガの帯があった。
そこには、浮彫で表されたアラビア文字の銘文と蔓草文の文様帯が巡っていたらしい。

そして、西側入口では気付かなかったので、東側開口部にあると思われるイーワーンの内側の装飾が絵葉書にあった。
オリジナルらしきものの風化具合や土台の焼成レンガが見えていることから、焼成レンガではなく、漆喰浮彫ではないだろうか。

入口横には、この廟をトルコの強力で修復したというような碑が立っていた。
しかしながら、ソビエト時代に引いた運河が近くを通っているために、地下水位が上昇しているので、廟内でも、せっかく白く塗った壁面が変色していたし、遺跡内に灌木がどんどん生えてきたという。

            メルヴ7 アスカブス廟

関連項目
メルヴ5 ムハンメド・イブン・ザイド廟
メルヴ4 小キズ・カラ
メルヴ3 大キズ・カラ Great Kyz Kalas
メルヴ2 グヤウル・カラ Guya Ulk-Kalaに最西端の仏教遺跡
メルヴ1 エルク・カラ Erk-gala


※参考文献
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES」 1998年 Charque