お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年4月14日月曜日

サントリーニ10 アクロティリ遺跡4


見学用通路に階段がついている。階段の傍にあるのは「西の家」と呼ばれている建物。
通路から眺めた西端の部屋
床が抜けている。二階建てかな。手前に部屋を区切る壁が部分的に残っている。
2階の第5室と第4室から壁画が発見された。
ということは、この右端の手前が第5室、向こうのポールのある方が第4室になる。
第5室の壁面に長々と描かれた航行図の説明をするポピーさん。
壁画については後日

西の家の北側にある建物はほとんど残っていない。
その間の通路を、西の家の北壁に沿って進んでいく。

ここで行き止まり。
このおじさんは警備員のようで、この見学路ではあちこちで出くわした。

向きを変えると地震で壊れた階段があった。
これは東通路から眺めた狭い部屋が並んでいる建物と思っていたもので、建築複合体デルタの続き。
その階段の外壁と西の家の東壁の間を通って、
三角広場へ。

西の家の南面。1階には玄関と小さな窓や勝手口?2階には大きな窓があいている。開口部の枠は角柱で、2階の窓は壁の内と外の二重に木枠がはめ込まれている。
続いて小さな窓のある壁面。上の階は第4室

三角広場の南、西通路に添ってあるのは「錨の家」。
ここで行き止まり。

左側は建築複合体デルタの西壁。
その続きのある建物跡が通路になっている。
それを抜けると大きな窓枠に器が置いてあった。
その続きの壁
奥で見学しているのは粉挽き小屋の広場
説明板は、Δ15には粉挽きの臼が置かれていたという。
ポールの左奥に石臼、右奥にパン焼き窯があったのかな。

上の女性の背後には石膏で復元したベッド枠。

階段から西通路へ戻る。

丸太で平天井を架けたり、窓枠が木材だったりと、当時のテラ島は、現在とは異なって、材木を豊富に穫ることのできる豊かな森のある島だったのだ。

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関連項目
アクロティリ遺跡の壁画3 舟行図
サントリーニ1 クレタからサントリーニへ
サントリーニ2 イアに夕日を見に
サントリーニ3 ネア・カメニへはフィラから
サントリーニ4 パレア・カメニ島の海中温泉
サントリーニ5 火山島ネア・カメニ1
サントリーニ6 火山島ネア・カメニ2
サントリーニ7 アクロティリ遺跡1
サントリーニ8 アクロティリ遺跡2