お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年2月25日木曜日

ニサ2 円形の広間と赤い広間


ニサ遺跡を見学している。

⑨円形の広間から。⑧の通路から入っていった。
『世界美術大全集東洋編15』は、アルケサス朝は西方のイラン高原、メソポタミアな どのセレウコス朝の版図を侵食して領土の拡大を図ったが、前2世紀半ばにミスラダテスⅠ世(在位前171~前138)が登場し、メソポタミア以東を支配す るまでに至った。旧ニサの都城はこの国王によって創建され、ミスラダケルトと命名されたが、以後アルケサス朝が3世紀半ばに滅亡するまで、修復を繰り返し ながら存続したとみなされている。
旧ニサの代表的な建物はこの都城のほぼ中央にある「方形の建物」と「円形の建物」で、ともに日干レンガで構築されていたという。 

⑨ 丸い広間 The Round Hall (RH)
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、直径17mで四角形の廊下を持つ建物。それはゾロアスター教時代に典型的な建物。丸い部屋は二重構造で、1階は滑らかな壁、2階は円柱が並び、円柱の間には壁龕があって、そこには神々の加彩された塑像があった。
屋根はドームで覆われていた。おそらく、祭司は王家の者だったという。
こちら側は円に見えるが、
反対側は円に見えない。

円形の神殿は外観は四角い建物だった。上の方はどうなっていたのだろう。
推定復元図ではドームが架かっていたことになっている。
このドームについては後日

この向こうにも何かありそうだが、向こうの長細い部屋はどこに属しているのだろう。

⑧小部屋に戻り、先が行き止まりの⑩細い廊下を通り過ぎて右へ
⑪広い部屋への入口があった。

⑫ 赤い建物 THE RED BUILDING (RB)
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、赤い建物は、円形の広間、柱廊玄関も含めて長さ40m、高さは4.5mという。
円形のゾロアスター教神殿とされる部屋は独立した建物として、平面図に異なる色を使ったが、研究者は一連の建物とみているようだ。
建物に入ると、そこで作業していた老人が、土を取り除いて柱礎を見せてくれていた際に、
金箔が見つかった。何に貼り付けられていたのだろう。
盛り土の数だけ円柱があるのかと思ったが、絵葉書によると、赤い建物の中央広間で、円柱が2本ずつ2列に並ぶ正方形の部屋らしい。
円形の広間の天井がドームだったのなら、この広大な正方形の部屋にはどんな屋根が架かっていたのだろう。焼成レンガでも日干レンガでも、レンガを持ち送って造るので、天井はドームてなければ円筒形ななるが、こんなに広い空間を覆うヴォールト天井を造る技術がその当時あったのだろうか。

その老人はイタリア人の考古学者だった。そして、説明しながら見せてくれた壁面の写真には赤と白の縦縞があった。
紅白に彩色された腰壁があったのだ。

⑬ 右奧の通路から柱廊玄関へ

⑭ 柱廊玄関 Portico

部屋を出て右側の壁。先の方には凹凸が設けてある。
左の方には先ほど見せてもらったような腰壁が露出していた。当時の床面はもっと低かったのだ。赤い彩色が残っている。
絵葉書では装飾板はもっと深くまであって腰羽目板だった。

外側から見た柱廊
本来はここから赤い正方形の部屋に入り、円形の広間でゾロアスター教の儀式を行ったのではないかな。

壁の深い縦溝は何だろう?

      ニサ1 遺跡の狭い通路を歩き続けると
                       →ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関

関連項目
ニサ遺跡の出土物はヘレニズム風
ニサ遺跡、正方形の広間はラテルネンデッケ
ニサ遺跡、円形の広間のドーム
ニサ4 発掘現場

参考文献
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年 
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館