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中央アジア各国の旅行記が完成したので、西アジアのイラン旅行をまとめています。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2016年2月8日月曜日

メルヴ1 エルク・カラ Erk-gala


『旅行人ノート⑥』は、遺跡はマルゥの東約25㎞のバイラム・アリの町より北へ4~5㎞の所に、60K㎡にわたって点在。世界最西端の仏教遺跡が発見された場所としても名高いという。

ガイドさんによると、アケメネス朝期に栄えていたマルグッシュが、マルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴ。メルヴのエルク・カラにアケメネス朝の都城が造られた。
周りに川があるという地の利を活かし、防衛のため高い城壁を築いた。当時は登り口の近くに橋があったらしい。
前4世紀末にアレクサンドロスが遠征してアケメネス朝が滅ぶ。アレクサンドロスはエルク・カラにアレクサンドリア・マルギアナという町を築いたという。
マルグッシュは地図でいうとメルヴの北にあるゴヌールやトゴロク遺跡のあるあたり。
アレクサンドロスの足跡を辿っているわけではないが、ギリシアではペラとヴェルギナ、エジプトのアレクサンドリア、ウズベキスタンのサマルカンド(当時はマラカンダ)に行ったので、これで5つ目の町となる。

『旅行人ノート⑥』は、メルヴに最初に都市が建設されたのは紀元前6世紀頃。その後シルクロードの交易の拠点として、アレクサンドロス、アケメネス朝ペルシャ、パルティア、ササン朝などの時代に数々の盛衰を繰り返した。11-12世紀にはセルジュークトルコの首都がここに置かれ、東方の真珠といわれるバクダードに次ぐ、第2のイスラム都市として最盛期を迎えた。しかしモンゴルのチンギス・ハーンの侵攻の際に全てが破壊され、老若男女を問わず、住民は皆殺しにされた。その後メルヴは数世紀の間、住民のいない土地になり、18世紀に一時この地方の支配者バイラム・アリ・ハーンが町を再建したものの、1795年、ブハラのアミールにより完全に破壊されたという。

広大なメルヴの遺跡内をバスで疾走。やっとエルク・カラの遺構らしきものが見えてきた。
両側の低い盛り上がりは城壁跡。
遠くからは砂漠にポツンとあるようでも、近づくと灌木の林の向こうにエルク・カラはあった。
赤いのはタマリスクの花。

同書は、遺跡の中で最も古いのがエルク・カラと呼ばれる紀元前3世紀に栄えた都城址という。
城壁の高さは26m。その上に城跡が残っている。

歩くと結構あった。地平線のレベルに見える白い建物はスルタン・サンジャール廟。

回り込んだところで神殿跡が左に見えてくるが、まずは王宮跡の方へ。

王宮跡近くには建物の遺構が複雑に露出している。
確かに日干レンガで造られていた。
王宮がどんな建物だったのか全く想像できない(神殿跡方面より)。

王宮跡からは360度展望できる。
左向こうに大キズカラ、正面にスルタンサンジャール廟、そして様々な時代に築かれた城壁
イスラーム時代の遺跡スルタン・サンジャール廟とスルタン・カラ。
やはりイスラーム時代の大キズカラ。
反時計回りに眺めていく。城壁跡が延々続いている。
鉄塔が目印。
グヤウル・カラの城壁の東南隅。地図で見るとあの辺りに仏塔跡があるはずだが全くわからない。
エルク・カラの城壁と凹んだ部分。
そして、神殿跡。

誰もいないが、立入禁止でもなさそうなので神殿跡に行ってみた。土が踏み固められていなかったので、ふかふかと柔らかく、歩きにくかった
エルク・カラの土は白っぽいが、赤い土器片が表面を覆っていると言っても過言でないくらいに散らばっていた。

円い丘に登ると何もなく平坦だったが、
右側には遺構らしいものが露出していた。左奥の盛り上がった遺構には、入口のようなくぼみがある。
南に回り込んでみたが何なのか見当がつかない。
その裏側には色の異なる日干レンガが積み重なっていた。

            →メルヴ2 グヤウル・カラ Guya Ulk-Kalaに最西端の仏教遺跡

関連項目
メルヴ7 アスカブス廟
メルヴ6 スルタン・サンジャル廟
メルヴ5 ムハンメド・イブン・ザイド廟
メルヴ4 小キズ・カラ
メルヴ3 大キズ・カラ Great Kyz Kalas

※参考文献
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「シルクロードの古代都市-アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波新書