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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年11月24日木曜日

タジキスタン民族考古博物館5 仏教美術


仏教美術の展示室には涅槃像の足元から入って行った。アジナ・テパの巨大な塑造涅槃像だ。

アジナ・テパ寺院の平面図(小さな数字は部屋の番号、『世界美術大全集東洋編15中央アジア』より)
涅槃像は塔院区㉓の回廊に安置されていた。

取り敢えず全身を写す。

仏涅槃像 7世紀末-8世紀初 残存部分長12m
脚部には衣の赤い色がよく残っている。
これが、塔院区の回廊に安置されていたのだ(発掘調査の写真パネルより)。
腹部より下の部分と左腕、そして右腕の一部が画面左下に見えるが、頭部は分からない。
後に見学したホールにあった全身像の写真より。
あまりにも大きすぎて、真横になるように写すのは無理。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、ここでは仏陀や菩薩、さまざまな天部および魔物の像が、成分と可塑性の異なる粘土で作られた。また藁を加えた粘土を、日干しレンガないしパフサで作った粗い本体に何層も塗ったという。
その土台の上に細かな襞の層をつけて、着衣を仕上げたのだ。
像全体の最終的な肉づけは、棒や鋭利なナイフで叩いた粒子の細かい粘土を表面に貼り付けて行ったという。
脚の間の薄い衣に寄る複数の襞の細かな線のまとまりの描く曲線、その盛り上がりは透彫ではないかと思うほどだ。
発掘現場の写真には写っていなかったが、頭部も残っていた。
額から上は、最後に仕上げた表層が残っている。
弧を描く細く長い眉には黒く彩色されている。
髪は向きを変え、幅にも変化をつけながらうねっている。衣褶線と同様に繊細な技術だ。
工匠たちは、自分の仕事を終えると寺院を立ち去ったようであるという。

菩薩頭部? アジナ・テパ出土
口が開いている。
これは半眼の如来のよう。 アジナ・テパ出土

螺髪 アジナ・テパ出土
仏菩薩の螺髪かと思っていたが、エルミタージュ美術館蔵の天部像も螺髪だった。
頭部 アジナ・テパ出土
これは供養者か何かの頭部だろう。粘土を彫ったのではなく、型作りにして貼り付けたのだ。

結跏扶坐した仏像の左足の裏 アジナ・テパ出土
指の開き方が何となくリアル。
別の仏坐像 アジナ・テパ出土
仏立像 アジナ・テパ出土
指が大地を踏みしめている。

小仏塔 7世紀末-8世紀初 粘土 アジナ・テパ出土
同書は、仏塔のある中庭には、その四隅に奉献小塔が置かれていた。もっとも保存状態が良好な小塔は中庭の北の隅にあったもので、10分の1の縮尺ながら構造と装飾が仏塔のそれとほぼ一致している。塔院区の北側の部屋のなかにもいくつかの小さな仏塔があった。それらは基壇も形も大きさも同じであるが、その装飾は互いに異なっているという。
そのような小さな仏塔が展示されていた。
これが見学した時に登った仏塔と相似形だとすると、階段はかなりの急傾斜だったことになる。登っている時は、崩れて急な斜面になったのだと思っていた。
アジナ・テパでは小さな塔も多く出土していた。
塔の上に逆角錐形のものが残っているものも。

テラコッタとその型 クシャーン朝(1-3世紀) 南タジキスタン出土 
上、右から3つ目が仏像の型のよう。

千仏図断片 アジナ・テパ出土
丸顔、身光と身光の間から茎が伸びて花が咲いている。蓮には見えないが、やっぱり蓮華以外考えられない。
これも千仏 アジナ・テパ出土

伝菩薩足部 7世紀末-8世紀初 70.0X50.0㎝ アジナ・テパ出土
脚のみ。蓮華の上に乗って、斜め前向きになっているので、三尊像の左脇侍かも。
同書は、主題のわかる壁画は断片しか残っていなかったが、それらから推測すると、アジナ・テペの壁画にはいくつかの仏陀説法図が存在するという。
説法図の部分だったようだ。


      タジキスタン民族考古博物館4 ペンジケントの壁画
                    →タジキスタン民族考古博物館6 イスラーム時代

関連項目
アジナ・テパは仏教遺跡
エルミタージュ美術館2 アジナ・テパ遺跡の仏教美術
タジキスタン民族考古博物館3 ソグド時代の彫刻など
タジキスタン民族考古博物館2 タフティ・サンギン出土品
タジキスタン国立古代博物館1 サラズムの王女


※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1998年 小学館