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中央アジア各国の旅行記が完成したので、西アジアのイラン旅行をまとめています。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2017年6月8日木曜日

ヤズド ダヴァズダー(十二)イマーム廟


本日は出発がゆっくりなので、朝食後、添乗員金子氏にダヴァスター・イマーム廟に連れていって頂いた。
そのタクシーはマレクオットジャール・ホテル入口の前に停まっていた。4名で乗り込んで、日干レンガの塀に挟まれた狭い通りを右折左折を続けて走り、キィアム通りに出た。そしてチャクマク・ターキエ手前の交差点でイマーム通りに左折出入り、マスジェデ・ジャーメが左にある通りを越して直進していった。
タクシーの中で十二イマームについて金子氏の詳しいレクチャーを受講できたことは幸いだった。この間ビデオ撮影していたので日干レンガ塀に囲まれた通りの写真はないが、せっかくなので、中東通の金子氏の話を紹介する。
イラン全体が十二イマーム派。預言者ムハンマドの娘婿アリーから直系の12代が続いて指導者をしていた。最後の人が神隠しに遭った。この世が終わる時に再臨するとされている。
11世紀、ある有力者が夢をみた、12人全員の墓がこのヤズドにあると。しかし、ヤズドに来てみたところ、それらしきものがない。そこで、自分で建てたのが、これから行く十二イマーム廟である。
で、何が珍しいかというと、12人の内11人の墓は、サウジアラビア・イラク・イランに散在している、つまり、一箇所にまとめて祀られているということがない。それなのに、ヤズドには12人全員の位牌があるということ。そして、12番目の指導者は、生きたままで神が隠されている、つまりどこかで今でも生きているのに、ここにだけ例外的に廟があることの不思議。
イラン、マシャド(通常はマシュハドと記されている街)のイマーム・レザー廟とサウジアラビアの廟は異教徒立入禁止なので入ったことはないが、それ以外は入らせて頂いたことがあります。

『イスラーム建築の世界史』は、ハディースは、墓を造る時、華美な建築で飾ってはいけない、土中に葬り簡単な印を付けるだけにせよ、と伝える。ところが、イスラーム建築の中で最も発達した建築ジャンルの一つが墓建築(墓廟または廟とも呼ぶ)で、その素地はサーマッラーのクッバ・スライビーヤと呼ばれる墓建築の時代から始まる。
イスラームにおける墓建築は、生者には死者を記念する建築だが、死者には最後の審判を待つ死後の宮殿となり、次第に墓建築が発達を極める。イスラーム教では、亡くなってすぐに天国か地獄に行くことが決まるわけではなく、亡くなった状態でいつ訪れるかも知れない最後の審判まで待たねばならないのであるという。
Google Earthより
その後カーブの続くファハダ通りをしばらく通ったと思ったら、再び赤い日干レンガの建物の並ぶ旧市街の狭い道に突入し、アレクサンダーの牢獄や十二イマーム廟前の公園の際に停まった。
Google Earthより

最初に見えたのはアレクサンダーの牢獄と呼ばれる建物。まだ閉まっていた。
『地球の歩き方E06イランペルシアの旅』は、アレクサンダー大王が建造したと伝えられている牢獄というが、ムカルナスや空色嵌め込みタイルがあって、どう見てもイスラーム時代の建物。
Nori's Travelさんのサファヴィー朝期以前のイランのイスラーム建築2では13世紀とされていて、ドームの内側からの見上げ写真や中の様子を知ることができる。
それを見た限りでは、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ北ドーム室、ゴンバディ・ハーキ(1088年)に似ているが、四隅のスキンチは三葉状にはなっておらず、2枚の大きなムカルナスである。
外側は、ドームが素焼きタイルあるいは、焼成レンガの側面を組み合わせて造られていること、その下の八角形の移行部には、素焼きタイルに隙間をあけることで文様となったムカルナスが並ぶ。
その下には空色タイルが嵌め込まれて大きく幾何学的な装飾となっている。

その続きの建物の傍に、目指すダヴァズダー・イマーム廟はあった。
見学は8時からということだったのに、木の扉は閉まっていた。
入口上の説明板は、ヤズドで現存最古の建物で、アブ・ヤコブ(Abou yacoob Eshagh)とアブ・マスード(Abou Masoud Badr)によって429年(西暦11世紀)に建立されたという。
この二人のどちらかが、金子氏の話の主人公なのだろう。ヒジュラ暦429年は西暦1037年である。
正面(北)は縦に3つの区画に分かれている。中央下部に浅い壁龕の中に扉。両側の区画は左右対称になっていて、二階建てのように壁龕が2段ある。上段の方が刳りが深そう。
大きさはどこにも明記されていない。ブハラのサーマーン廟(10世紀半ば以前)の外観がほぼ10mの立方体に大きなドームが載っているのだが、一緒に写った人間と比較すると、それよりも小さいようだ。
それは深見奈緒子氏の『イスラーム建築の世界史』の、イランから中央アジア一帯のペルシアでは、10世紀からイーワーンやドームなどのペルシア的要素が復活の兆しを見せていたが、イスラーム教が民衆の間に深く根づいていくにつれ、これらのペルシア的要素が進化し、洗練される。
11世紀になると、キャノピー墓のドームが大きく高くなる。サーマーン廟を端緒としたドーム技法はモスク建築にも適用されるようになるとともに、四角形の部屋から円形のドームに至る移行部の技法が飛躍的な進化を遂げる。内部では四角形から八角形を導き十六角形を介して円形へと達する移行部が、建築の見せ場の一つとなる。また、外部には筒状の部分(ドラム)が設けられ、ドームが一層高くなるという文と共に記載された下の図版の移行部を見たかったからだった。

鍵が開けられるまで、とりあえず一周してみる。
正方形平面の壁面と、平たいドームの間に八角形の移行部がある。
東面はほぼ正面と同じ壁面構成になっていて、違いといえば中央の尖頭アーチの浅い壁龕が大きいくらい。
東面上部
上部の壁面にも平レンガを少しずつ持ち送って、日陰とはいえ、その陰影が建物のアクセントになっている。
南面との角にも縦の凹みを造り、等間隔ではないようだが、平レンガを1つ出している。
色タイルはなくても、壁龕や平レンガのこうしたアクセントが、建物の装飾になっている。
キブラ方向の南面にはこんな出っ張りが。きっと内部にはここにミフラーブがあり、中から見ると奥行のある構造なのだろう。
右下の壁龕脇には付け柱が設けられている。
左下の壁龕にも両側に付け柱がある。
西面へ。この角には縦の凹みがない。
東面と同じように、中央には大きな壁龕がある。
金子氏が鍵を持っている人を探しに行かれたが、「修復中なので見学できない」という返事だったという。

ブハラのサーマーン廟(10世紀)では、外観上部の四方には、1辺に対し10個のアーチ窓を造り、廟のドーム内空に吹抜けにしたギャラリー(回廊)が続いているように見える『シルクロード建築考』より)。合計40ものアーチ窓があり、明かりが内部に差し込むが、十二イマーム廟では正方形から八角形と移行してから背の高い尖頭アーチの壁龕が8面に3つずつ、合計24あっても窓はあいていない。
その下の正方形の四隅には小さな膨らみがある。これは内部から見ればスキンチの凹面だが、それにしては見えている部分が少ない。
有り難いことに、ハシムの世界史への旅というホームページのアレクサンドロス大王の牢獄と12イマームの霊廟の中にこのスキンチとその両側に明かり取り窓のある尖頭アーチという画像があり、4面の明かり取り窓の下のライン辺りが、正方形の四隅にスキンチ・アーチを渡す起拱点となっていることが判明した。
実は鍵の掛かった扉の隙間からスキンチを探したのだが、意外に低い場所に、大きく(8辺の内の1辺なので当然だが)存在していた。目では見えてもカメラのレンズはそれを捉えることはできなかった。
実際には、尖頭アーチの壁龕のある八角形の壁面の内側では、すでにドーム架構が始まっている。それが八角形の装飾的な壁(『イスラーム建築の世界史』は八角ドラムとする)に阻まれて見えないので、このドームが平たく感じるのかも。しかし、それにしてもサーマーン廟のようなドームの美しさはない。この上にもう一つドームのある二重殻ドームだったのだろうか。

アレクサンダーの牢獄や十二イマーム廟のあるZiaee広場の反対側にもバードギール。
ここからホテルまでは、もっとヤズドっぽい赤い日干レンガ塀に囲まれた狭い旧市街の曲がりくねり、複雑に交差する道を通ってホテルに辿り着いた。
これだけ走って、待ってもらって4名で3ドルとは。

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関連項目
ヤズド 街と隊商宿ホテル
重量軽減のための二重殻ドーム
装飾的なムカルナス

参考サイト
Nori's Travelさんのサファヴィー朝期以前のイランのイスラーム建築2
ハシムの世界史への旅アレクサンドロス大王の牢獄と12イマームの霊廟

参考文献
添乗員金子氏の旅日記
「イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波セミナーブックスS11
「シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術選書32