お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年10月16日月曜日

ビストゥーン(Bisotun) 碑文と建物


ブルジュルドの日の出。
遠くの雪の残る山、手前の斜面や集落が朝日に染まっている。
ホテルが町はずれの丘の上にあるため、朝散歩に町中に出掛けることはできないので、敷地内で花を探すにとどまった。
花についてはこちら
この日も乳製品とスイカ三昧の朝食

本日はブルジュルドからサナンダージまで移動し、途中のビストゥーンとターケ・ボスタンを見学する。
Google Earthより
雪山も遠方に連なっていたが、やがて車窓から消えていった。
この地方の羊飼いは、ちょっと替わったズボンをはいている。
52号線を通って、T字路の横棒48号線に入ったところにパーキングエリアがあった。
来し方を眺めると、低い山々の上には美しい絹積雲が。
三角の山の連なりに、また山岳地帯かなと思っていたら、

その山の一つがビストゥーンだった。
大阪大学イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス1世の碑文と浮彫は、古代のバビロンとバグダードからザグロス山脈を経てハマダーン(エクバタナ)に至る幹線道路の北側,ケルマーンシャー市から東32㎞のところに位置する北側にせり出した山崖の呼び名。アケメネス朝時代ではバガスターナ(Bagastana)「神の居所」と呼ばれた。ふもとの町もこの山に因んでBisetum、Bistun、Bisotunなどと呼ばれている。太古の時代からこの場所は聖所で,旧石器時代からイスラーム期に及ぶ多くの遺跡が存在する。そのなかで最も重要な遺跡はアケメネス朝の王ダリウス一世の手になる戦勝記念・王権叙任図の浮彫と碑文である。浮彫は高さ3m、幅5.5mの大きさで,麓の泉から66mのところに造刻されているという。
また、ガイドのレザーさんは、「王の道」がこの崖の近くを通っていたという。その王の道こそ、ダリウス1世が都のスーサからアナトリア半島の西端、現サルディスまで通した道だった。

駐車場から歩いていくと、この山の斜面には、様々な時代の浮彫があることが、パネルで紹介されていた。
他にもサファヴィー朝期のキャラバンサライまで、様々な遺構が残っている。
Google Earthより
最初に見えるのは、寝そべるヘラクレス。
棍棒を立て、酒杯を片手に横になっている太めのヘラクレスは、何を眺めているのだろう。
ヘラクレスは岩棚ではなく、ライオンらしき長い尾を持つ動物の上に寝そべっていた。
ヘラクレス像 前148年 アンティオコス5世 147㎝
説明板は、ビストゥーン碑文から300m、ハマダーンとケルマンシャーを結ぶ古い道の傍に岩によりかかるヘラクレスが表された。ちぢれ髪、髭面でライオンの毛皮の上に横たわっている。背後には、1本のオリーブの木が彫られ、矢が詰まった箙が掛けられている。棍棒も木の近くに立ててある。ヘラクレスの頭の後ろには、ギリシア神殿風の枠に、古代ギリシア語による7行の碑文が記されている。碑文によると、ヘラクレスはセレウコス朝164年、紀元前148年、ギリシアのパルティア統治時代に彫られたという。 
ヘレニズム時代のパルティア美術だった。
ガイドのレザーさんは、ライオンはヘラクレスよりも古い時代に彫られたという。
300mほど進むと、やはりギリシア神殿型の碑文が、その左上方にビストゥーン碑文がある。修復のために、長い間覆いが掛けられていたが、この時は足場が残っていたが、碑文はある程度は見えるようになっていた。
説明板は、パルティア時代、ミトラダテス2世とゴアルテス2世の時代に、シェイフ・アリハーネ・ザンジェネーによって彫られた。15行にわたる碑文があるという。
碑文はギリシア神殿型の壁龕に彫られている。
中央上には天使が飛んでいるみたいな浮彫が。
天使がディアデマを兵士の頭に被せようとしているようだ。ミトラダテス2世かゴタルテス2世に、神が味方して勝利した場面かな。
碑文の両側には人物の浮彫があり、右の方は他に何名かが続いているようす。
そしてビストゥーン碑文の方は、アフラマズダ神やダリウス1世などが浮彫されている。
ガイドのレザーさんの話では、捕らえた捕虜を連行した図で、最後尾はスキタイ人という。確かに尖り帽子のサカだ。
説明板は、前520-519年、 18X7.8m
王位簒奪者ガウマタと9名の反逆者に対する勝利を表した浮彫の周囲に、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の碑文がある。両手を上げて降伏を示したガウマタは王の足元に横たわり、捕虜たちは王向かい合っている。アフラマズダのシンボルである有翼日輪は、ダリウス1世に力の輪を授けようとし、王は右手を挙げて恭順を示しているという。
ガウマタは全く見えない。
『世界美術大全集東洋編16』は、このような形式はメソポタミアのアッカド王朝のナラム・シーン王の戦勝図やイラン北西部サリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図(前23世紀)などに由来する。ダリウス1世の右上にはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーが表され、正当かつ正統な王位を象徴する環を同王に授与しようとしている(王権神授)。これもメソポタミア美術の王権神授図に伝統的な「環と棒」に由来するという。
そこまでして「正当かつ正統な王位」であることを示そうとするのは、逆に正統な後継者ではなかったからとも思える。ダリウス1世は王位簒奪者とされる場合が多い。
詳しくは後日

下の方には、泉から湧き出た水をためた池。
浮彫を見た後は、しばし歩く。
キャラバンサライの手前には荒れた遺構が。
その右手には岩に彫られたファルハド・タラシュという、おそらくサーサーン朝のホスローによってつくられた。
説明板は、約220mの長さ。このタイプとしてイラン最大。ファルハド・タラシュはイラン最大の碑文である。サーサーン朝のホスロー・パルヴィスの時代に遡るという。
ホスロー・パルヴィス(勝利者)はホスロー2世(在位590-628年)のこと。
そしてその下には、先ほど見えた遺構はホスロー2世の未完成の宮殿跡で、レザーさんは、イルハーン朝時代にキャラバンサライに改築しようとしたが断念したという。
立面図
平面図
ヴォールト架構が少し残っている。
尖頭アーチの造り方
他の部分は大きな石でも、アーチだけは小さなレンガを持ち送っている。

そのずっと向こうに、サファヴィー朝のキャラバンサライが。
そこに行くには、まず手前の遺構を南に回り込む。心地良い音楽が左端の建物から流れてきた。
これは博物館ではなくチャィハネで、ここからハーフェズの詩を歌う男性歌手の声が聞こえていたのだ。

遠目には一つに見えたが、向こう側にひびの入った扁平なドーム、こちら側にはイーワーンがあるのだった。
南東の角
南西の角を曲がったら小さなイーワーンがたくさんあった。
なんと、かなり修復されていて、ガラス張りの入口まで。
入ってみるとホテルになっていることがわかった。
中庭まで見せて貰い(無断で)退散。泊まってみたかった。
その後バスでキャラバンサライ・ホテルの前を通過。



ブルジュルドのイマーム・モスク← ターキブスタン サーサーン朝の王たちの浮彫

関連項目
敵の死体を踏みつける戦勝図の起源
ブルジュルドのホテル敷地とビストゥーンに咲いていた花

※参考サイト
大阪大学イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス1世の碑文と浮彫

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館