お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2018年2月8日木曜日

イラン国立博物館3 アケメネス朝時代


アケメネス朝時代の展示品は、ほぼペルセポリスとスーサ出土のものだった。
『ペルシア建築』は、ペルセポリスは王朝の祭儀場であったが、決して決して政治的首都ではなかった。偉大な王たちはごく稀に、しかも一時的に、ここに住んだのみであり、あくまで、スーサ、バビロン、エクバターナが政権の所在地とされていた。ペルセポリスは聖なる国家的祭儀場、ノウ・ルーズ(新年祭)と呼ばれる春の祭のための完備した舞台装置に他ならない。ここでは、象徴的演出のあらん限りを尽くすことによって、多産と豊穣がもたらされるよう、神威が懇願されたのであるという。


まずペルセポリスの出土物から

双頭の牡牛形柱頭彫刻と下部の装飾 高370柱礎径76㎝
ペルセポリスではこんなに保存の良いものはなく、破損した牡牛やライオンの柱頭がケースの中に置かれているか、双頭の柱がなく、下部の彫刻だけの高い柱を眺めるかしかなかった。
説明は、これはペルセポリスの柱頭では小さな例の一つである。柱礎は釣り鐘形で花を表している。縦溝を施された円柱はもっと長かった。その上にナツメヤシの葉が垂れ下がった装飾、更に手の込んだイオニア式柱頭のような渦巻があり、頂部に背中合わせの2頭の牡牛の柱頭がのるという。
それにしても黒いし、渦巻には彩色されている。そう言えば現地で買った『Persepolis Recreated』という本では柱頭彫刻は黒く、金色の彩色がされていたが、遺跡に置かれた柱頭彫刻は白っぽかった。太陽に晒されて色を失っていたのだ。
でも、彩色ではなく、表面が剥離しているたい。金彩が施されていた痕跡は見当たらない。

アパダーナの北中央階段にあったとされる謁見の場面
『GUIDE』は、同書は、謁見の場面で飾られていた。蓮の花と王を示す笏を持ち、王は玉座に座る。その皇太子は玉座の後ろに立ち、その背後にはタオル持ちと武具持ち、そして2人の近衛兵がいる。王の前には、高官が服従の仕草で片手を口の前に挙げ、軽く身を屈め報告している。その背後にも2人の近衛兵が立っている。クセルクセス王の後、この謁見の場面は宝物庫に移されたという。
宝物庫での出土場所を示す図
髪や表現の整然と並ぶ渦巻状のものは、パーマをかけていたと聞いたことがある。それはアケメネス朝に限らず、アッシリアでもそのような習慣があったらしい。熱した鉄棒に巻き付けたのだとか。
目は石かガラスの象嵌で、耳にも飾りが見える。左手には蓮華を模したものを握っているが、家来を呼ぶ呼び鈴だったのかも。
襞の多い着衣から、腕の膨らみがわかるような表現である。その襞は肩甲骨あたりから5つできていて、衣端の重なりも丁寧に表現されている。長衣はおそらく中央に縦襞があるのだろうが、浮彫では常に側面観となるため、それが見えるよう、片側に寄せて表される。例えば左に向かって歩む王の浮彫(トリピュロン)などは、縦襞が左に偏っている。
獣足についてはこちら

高官も耳飾りを付けている。袖口にできる皺まで表現されている。

彩釉レンガの壁面装飾 アパダーナ出土
アケメネス朝時代の彩釉レンガといえばスーサの宮殿にあり、ペルセポリスは石造りの建物群だと思いがちだが、ペルセポリスでも彩釉レンガは壁面装飾に用いられていた。
彩釉レンガについてはこちら

トリピュロン(3つの門のある宮殿)の中央階段 前5世紀
トリピュロンの中央玄関の図はこちら
盾は持たず、両手で槍を立てて行進する守衛たち。
ペルシア及びメディアの聖職者 
説明は儀式のために動物や食べ物を運ぶ場面という。
右手に短剣、左腕でライオンを抱えている。
アッシリアのラマッス人面有翼牡牛像)型柱頭彫刻の部分
アッシリアのラマッスは正面観と側面観を合わせて肢を5本表すが、ペルシアでは4本。
ペルセポリスの万国の門のラマッスは有翼だが、この柱頭き胸に羽根が浅浮彫されているものの、翼はなさそう。

タチャラ宮殿の浮彫装飾
タチャラ宮殿はペルセポリス平面図では⑥G宮殿とされている遺構
『GUIDE』はナツメヤシの列を表しているという。

建築装飾 ペルセポリスでの出土地不明
大小のロゼッタ文の間にライオンの行列

リュトン ガラス
アケメネス朝時代ではまだ吹きガラスという技法がない時代なので、ガラスの塊から削り出した。先端は馬を造形しているようだ。

施釉鉢
銀化しているらしく、本来の釉の色は不明だが、ずんぐりした茶碗のようで、侘びた趣がある。

水差し エジプシャン・ブルー
『古代オリエント事典』は、珪酸・銅・石灰にアルカリ溶剤を加え加熱して溶融した化合物。艶のないざらっとした質感が外見上の特徴。しばしばガラスやその類似物質と混同されるが、その構造の大部分が結晶質である点で、ガラスと、表面に釉の皮膜がない点で施釉石や施釉陶器と、中心部まで均質である点でファイアンスと、それぞれ相違し区別できる。天然にもごくまれに存在するが、エジプトの第4王朝時代に初現するとされ、第18王朝に盛期を迎え、第26王朝前半には、表面に赤・黄などの彩色を施したものも認められるという。
いろんなものがガラスケースに反射しているので、この器体の本来の姿がわからない。
細長く、割合大きかった。肩に小さな耳が2つ。
剣の柄の装飾部品 エジプシャン・ブルー

青銅製台 ペルセポリス出土

スーサの出土物
『ペルシア建築』は、前521年になると、カンビュセス2世の跡を継いだダリウス1世が、スーサの地に壮大な実務上の首都を建設せんと決意したという。

ダリウス像 エジプト東部のワディ・ハママト産灰色花崗岩製 総高246、台座高51、105X64㎝ 
説明は、長方形の台座に設置されている。王はペルシア風の衣装で、短剣を帯にさしている。着衣の襞には、右に帝国の公用語である古ペルシア語、エラム語そしてバビロニア語の楔形文字、左にはエジプトのヒエログリフが刻まれている。これらの銘文は、王の名と、この像がダリウスの命で、おそらくヘリオポリスの神殿に安置するために、エジプトで造られた。着衣はペルシア風だが、背後の柱と台座の装飾はエジプト様式である。台座の前後にはナイルの神であるハピが表され、長い側面には24のカルトゥーシュに名を記された帝国の人々が表されている。
エジプトで制作され、クセルクセスの治世にスーサに運ばれたらしいという。
着衣の衣文がギリシア風なのは、当時のペルシアの領土内だったイオニアから技術者を呼び寄せたからという。
襞に茶色っぽい赤みがかった彩色が残るという。
着衣の襞だけでなく、短剣にも銘文が刻まれているし、帯の両端にはヒエログリフもある。
衣端の襞は、ヘレニズムによって伝播した後の仏像とも共通する。
その出土状況

柱礎  前5世紀
説明は、楔形文字で古ペルシア語、エラム語、バビロニア語の銘文が記されている。
「我はアルタクセルクセスなり。偉大なる王、王の中の王、ダリウス王の息子である」というが、実際はクセルクセス2世の息子。

蓋付き容器 施釉
多色の釉を使った華やかなものだったのだろうが、銀化で柔らかな色になっている。

石製容器 出所不明
12羽の鴨が容器の縁に嘴をそろえている。

  イラン国立博物館2 エラム時代←   →イラン国立博物館4 パルティア時代

関連項目
イラン国立博物館 彩釉レンガの変遷
イラン国立博物館 印章
ペルセポリス3 トリピュロンまで
ペルセポリス アパダーナの階段中央パネル
獣足を遡るとエジプトとメソポタミアだった
イラン国立博物館5 サーサーン朝時代
イラン国立博物館1 青銅器から鉄器時代

※参考文献
「Persepolis Recreated」 Farzin Rezaeian 2004年 Sunrise Visual Innovations
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA 
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会