お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2010年12月26日日曜日

2-9 パラティーノの丘、アウグストゥスの家とリウィアの家

⑯通称バシリカ(Basilica、地下はイシスの間 Aula Isiaca)の西側から歩いて行くと素屋根のかかった建物が見えてきた。この辺りがパラティーノの丘では最も古い遺構の残る地域だ。
⑩リウィアの家の裏側と思うような家屋に突き当たった。そこは中庭があるものの、質素な建物だった。
グ-グルアースで見るとやはりリウィアの家の裏側の逆コの字の家だ。

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右側に家を見ながら歩いて行くと、内部が見えてきた。通路を挟んで細かく区画されている。

正方形を斜めに並べたような壁があちこちに見られる。上部は残っていないが、そのために、返って壁の中身がむき出しになっている。これがローマン・コンクリートだ。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、壁として構築する場合、通常、石材や煉瓦によって仮枠を造り、その中にコンクリートを流し込んで凝固させ、石材や煉瓦による仮枠はそのまま残していた。そのため、この外側の壁の造りには次のような特徴があり、年代的な変化もみられる。 (略) 整層積み(opus quadratum、帝政初期)、網目積み(opus reticulatum、前1~後2世紀)という。
これは網目積みになるだろう。このことを知らない時は、このような壁面を図版で見ても、形をそろえた切石を積み上げた石壁だと思っていた。この旅行が決まってから、改めて調べていてローマン・コンクリートなるものを知ったのだった。
さて、この網目積みの壁には丸い穴がところどころあいているが、注意して見ると、正方形の石材があちこちで剝がれているので、並べた石が思ったよりもずっと薄いこともわかった。
通路の南側には柱頭などの破片が並べてある。その向こうには荒い造りの壁体が見える。⑫アポロ神殿の基壇(Tempio di Apollo)だろうか。
アウグストゥスの家は彼が建立したアポロ神殿の西脇に位置し、リウィアの家はその北側の区画であるという。通路はここで右(西)へ折れている。
南側の土地は段状になり、かつ段々と低くなっていく。これがアポロ神殿跡かな。
また柵で仕切ってあると思ったら、⑪アウグストゥスの家(Casa di Augusto)への入口だった。見学はできないだろうなと思っていたが、A4の張り紙には見学できる曜日などが記されていた。
建物自体が見えないので、先ほど博物館で見た壁画がここにあったのだなあなどとも思わなかった。
右側はというと、均等に尖ったレンガの角の出た壁が現れ、その先にはアーチが並んでいる。
アーチの一つ一つが半地下になったヴォールト天井の部屋だった。使用人たちの個室だったのだろうか。
次の分かれ道を右折するとそれが下写真のような新しい建物に覆われた⑩リウィアの家(Casa di Livia)があった。
主要な部屋は4室のみで、いずれも小さな中庭に面している。タブリヌム(主室)が中央にある3室は南側、トリクリニウム(宴会用の部屋)は西側である。本図の壁画がある部屋はタブリヌムの西隣であるという。
ということは、上の写真はタブリヌムかその副室ということになる。このような部屋の並びに葉綱の壁画があったとは。

しかし、共和政末期のパラティヌス丘は、カピトリヌス丘に次いで由緒のある地域で、多くの貴族たちが住んでいた。しかし帝政期に入り、ティベリウス帝(在位 後14-37)やドミティアヌス帝(在位 後81-96)が壮大な皇帝の宮殿を建設したため、共和政期の住宅はほとんど消滅してしまった。その例外的な住宅の一つがアウグストゥス(在位 前27-後14)の私邸で、通常「アウグストゥスの家」と呼ばれている。また、「リウィアの家」と称されている建物も最近の調査によりその一部であることが判明しているが、慣例上そのままの名称で呼んでいるという。
リウィアの独立した屋敷という訳ではなかったようだ。
見学ができないので、リウィアの家の中がガラス越しに見える西側から、カメラをできるだけガラスに近づけて写してみた。ヴォールト天井の部屋がこの両側にもあったが、当時の支配者の邸宅と言えども、あまり大きな部屋ではなかったようだ。
西側にはトリクリニウムがあるということだが、当時の宴会というのは、部屋の三方に寝台を置いて、横に寝そべって、部屋の中央に置かれたテーブルの上に並んだごちそうを食べるというものだ。部屋の中央には舗床モザイクがあったというのを誰かに聞いたような気がするが、見えている部屋は宴会ができる程の広さも、舗床モザイクもないのでは。
その南側の部屋には何かわからないが、剝がされた壁画を額に入れて壁面に掛けてあるようだ。そしてこの部屋の手前には、黒石と白石のテッセラで、玄関マットのような舗床モザイクがあるので、出入り口がこちら側にあったのだろう。
共和政期の邸宅がすべて取り壊されたにもかかわらずアウグストゥスの家だけが残されたのは、ローマ帝国の創建者が起居した場所として尊重されたからであるという。

※参考文献
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)