お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年1月10日火曜日

1日目1 ハラン Harran へ

イスタンブールを早朝に飛び立ち、ウルファ空港へ。
下の地図にはウルファもイスタンブールも載っていませんが、拡大すると出てきます。イスタンブールはブルサの上、ウルファはシャンルウルファという名でガズィアンテプの東です。

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アナトリア半島を斜めに横切っていた飛行機が高度を下げ始めると「水」が見えてきた。ユーフラテス川源流部を堰き止めて造ったアタチュルク・ダムだ。
1時間半のフライトの後、乾燥した大地をバスで南へ。
ガイドのKさんは言った。
アタチュルク・ダムで乾燥した地方に広大な農地が生まれました。しかし、今までこの地方にはなかった病気が出てきました。それはマラリアです
そう言われても車窓から見えるのが荒れ地では実感がわかない。
しかしマラリアとは。蚊除けのものを持ってくるのだった。
段々と耕作地が見えて来た。麦の秋と向こうの白い丘。
緑も出てきた。畝をつくった野菜畑だ。
空港を出てから1時間10分、ハランはシャンルウルファの町から44㎞ということだし、道もよくてスピードを出して走ってきたのに、えらく時間がかかったものだ。
ハラン町に入ってしばらくすると低い城壁が見えて来た。城壁に沿って反時計回りに走っていくと、尖り屋根の家が見えて来たが、廃墟のようだった。
尖り屋根は四角い家に混じってあるという程度。バスは石造りの遺構の手前で左折。
ここからは歩いて観光開始。
丘に登ると遺跡の地図があった。
城壁は全長4㎞、6つの門があった。よく残っている内城は4つの塔があり、町の南東部に位置している。丘の縁にウル・ジャーミイ(大モスク)が建立され、その33.3mの高さのミナレットなどが当時のハランの大きさを証明しているというような説明文が地図の横にあった。
しかし、歴史はもっと古いはずだ。
『トルコの旅はバスがいい!』は、一族を率つれてウルを出たアブラハムがカナンへ移り住む前に滞在したと聖書が伝えるハランという。
『イスタンブール、時はゆるやかに』には、聖書によれば、ハランは、イサクの妻リベカが、わが子ヤコブのために水を引いた土地であり、また、アブラハムはこのハランを経て、神の約束の地カナン(現在のパレスチナ)に赴いたと、その話の続きがあった。
ローマ時代には、将軍クラッススがこの地でパルティア人との戦いに敗れ、軍勢もろとも捕虜になっている。また、背教者の異名を持つかのユリアヌス帝は、ペルシア討伐の途上、このハランで、月神に祈りを捧げたとされているが、その後、交戦中に投げ槍が刺さって、32歳の生涯を終えている。ハランはローマ人にとって、不吉な土地だったとも言えよう。
どうもそのような時代の遺跡が見学できそうにもなかった。
あの遺構は内城だったのだ。塔など見えないが。
見学出来ません
それは残念。
左にハラン・ハウス。ここでも尖り屋根の家々とコンクリート造りのような四角い家屋が入り混じっている。尖り屋根は、壊れると造り直すのが大変なのだろうか。

※参考文献
「トルコの旅はバスがいい!」(小田陽一 1998年 京都書院)
「イスタンブール、時はゆるやかに」(澁澤幸子 1994年 新潮社)