お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年4月13日木曜日

マスジェデ・ジャーメ1 南翼


イスファハーンのイマーム広場から北東方向にマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)がある。

マスジェデ・ジャーメは巨大な4イーワーン形式のモスクである。
『ペルシア建築』は、セルジューク朝建築の高貴にして力強い性格を物語る最良の実例は、疑いなく、イスファハン所在のマスジデ・ジャーミである。これは世界における最も偉大な建造物の一つと言える。イスファハンはさまざまな時代にさまざまな君主のもとでペルシアの首府となった都市であり、したがって、その市内に位置する大施設としてのマスジデ・ジャーミも、決してすみずみまで全部がセルジューク朝時代のものというわけではない。しかし、その中でセルジューク朝時代に建てられた部分がやはり最も名誉ある地位を占める。
ペルシア建築の900年以上にわたる変遷史がこの大モスクに現れている。建物は全部で20ほどの区画に分かれるが、各区画の年代は大いに違い、11世紀から始まり18世紀に及ぶ。そうした長い歴史を通じて、このモスクはたびたび争乱に巻き込まれ、破壊を蒙り、修復が終われば、また荒廃するという有様であった。それにもかかわらず、このモスクは今日まですべての試練を耐え抜き、しかも、総数30点内外にのぼる歴史的インスクリプションを遺しており、それらのインスクリプションが-まだ完全に判読されたわけではないにせよ-我々がこの荘厳な建築を鑑賞しようとする場合の有益な資料となるのであるという。
ホテルを出たバスは、ある地点から地下に入って行き、やがて停止した。
そこから歩くことになった。行く手が段々明るくなってきて、馬蹄形に階段もあるが、その間にエスカレータも設置されていた。右側通行。
地上に出ると、周囲はまだ出来上がっていないようだった。
左に建物の壁を見ながら、ガイドのレザーさんの後を付いていく。
そして左折。
モスクでお祈りする時のためか、こんな服を売っているお店も。それぞれの国によってデザインが違うのだとか。しかし、全ての女性に強いられているわけではない。ムスリムではない我々旅行者は、髪や首などが隠れる帽子やスカーフで十分だった。
振り返るとレトロな家並みが残っていた。残念ながら再開発されてなくなってしまうだうろが。

平面図(『GANJNAMEH7 CONREGATIONAL MOSQUES』より、番号は『ペルシア建築』に記載された、1931年にEric Schroederが作成した平面図より)で見ると、東入口は通路に対して少し斜めに造られている。
正面がマスジデ・ジャーミへの入口だが、古くはなさそう。館内の説明では、ムザッファール朝時代(14世紀後半)に造られ、カジャール朝期(18世紀末-20世紀初)に修復されたという。
門をくぐる時に背の高い大きな扉があった。700年以上前のものです。スズカケの木はすごく丈夫ですとレザーさん。
本来は中庭に入るための通路だが、順路は右。

現在は料金所となっている部屋の右(南東)壁に壁龕がある(下の拡大平面図の94の西側、『GANJNAMEH7』ではHakim’s soffeと呼んでいる)。
ヴォールト部分は修復されたものに見えるが、このムカルナスはそれに比べると古そうだ。モスクの説明から、ムザッファール朝時代(14世紀後半)のものらしい。

焼成レンガとトルコブルーの色タイルを組み合わせたモザイクタイル。
ムカルナスは曲面というよりも、小さな平面の組み合わせだが、その平面も焼成レンガの小さなモザイク片でできている。トルコブルーの色レンガは、六角形のものと、細く直線的に刻んだもので文様を構成したもの。その上に巴のようなものもある。迷路のように思えるが、おそらくアッラーやムハンマドなどの文字だろう。

次の間も修復されているようだが、小ドームに明かり取り95があるので明るい。
でも柱は古そう。
その下に現在の姿の模型があり、まず説明を聴く。(実際の方角は反時計回りに45°傾きがあります)
マスジェデ・ジャーメとは金曜モスクという意味で、普段は近隣の小さなモスクに礼拝に行くムスリムは、金曜には金曜モスクに集まって集団で礼拝を行うため、街が栄えて人口が増えるに従って拡張していき、現在の姿になった。夏の暑さ、冬の寒さを避けるためにドームやイーワーンの周囲にある礼拝室(shabestan)には屋根が架かっている。
明かり取りのない奥から中庭への通路方向。左端の尖頭アーチに支えがあるのは、イラン・イラク戦争の時にミサイルが着弾したためだという。
中庭まで通っている通路に沿って、モスクが拡大していく様子が、王朝別に説明したパネルが並んでいる。
その歴史については後日
赤い数字は写真に撮ったもの。番号は『ペルシア建築』に記載された、1931年にEric Schroederが作成した平面図より。

通路に沿った3連の明かり取りのある小ドーム969798
ドーム五重塔に平レンガの積み方(ヴォールテイング)が異なるので、それぞれに文様ができていて面白い。
この先は小ドームを見上げながら彷徨っていった。ガイドのレザーさんは説明しながらどんどん進んで行くので、耳太郎(日本人はイヤホン・ガイドというが、イラン人のレザーさんから教わった名詞)で聞いていると一緒にいるように思ってしまう。それで話が途切れると、皆さんからかなり遅れてしまっていることに気付き走って行くということを繰り返した。
こうなると、小ドームと柱の迷宮である。

大きなムカルナス発見。この辺りからセルジューク朝時代の礼拝室となる。
『ペルシア建築』は煉瓦の積み方そのものによる、際限もなく種類の多い、生き生きとした独創的な装飾パターンという。
この礼拝室のドーミカル・ヴォールト(4本の柱で支えられた小さなドームまたは天井)は興味深いので、別にまとめます。

修復された14から18の小ドーム群。その先には19のドーミカル・ヴォールトが架かり、古い2本の円柱の露出した壁が立ちはだかっている。

戻りながら円柱を見ていく。ウズベキスタンなどでは、イスラーム以前のソグドの文様などと言われている文様のような気もする。
イスラーム以前はペルシアでもゾロアスター教を信仰していたので、ソグドの文様ではないとしても、ゾロアスター教由来の文様かも。
時代ごとにマスジェデ・ジャーメは拡張されたり修復されたりしていく。壊されたところも多い。その中でこのような幅広の柱になったのか、ここにも文様は刻まれている。他にX字状のものが2つ並んだ文様があって、人間が支えていることを示しているとか。

49明かり取りのあるドーム下より、西を見る。4人の向こうには5255の連続するヴォールトのある南東礼拝室北端の一室。
左前には古そうな蔓草文で覆われた円柱が。ドーミカル・ヴォールトを支えて久しいが、円柱が立てられた時は、陸屋根の梁を支えていただろう。

33の小ドーム下より眺めた37までの小ドーム群。その先には38のドーミカル・ヴォールト壁面から円柱が出ている。
西に進むとドーミカル・ヴォールトが3つ並んでいる38・29・19
38の下には時代の重なりを感じさせる壁面が。
壁に取り込まれた太い円柱の上には漆喰装飾による蔓草文。それがつくられた頃は、この上が平天井だったのだろう。その上の赤っぽいレンガも古そう。

中庭への出入口。
その反対側、奥のドーミカル・ヴォールト10には小さなミフラーブが。
蔓草文を左右対称に配した絵付けタイルは、15世紀以降のものだろう。サファヴィー朝(16-18世紀)に入ってからのものかも。
19の東壁にも壁に埋め込んだ2本の円柱がその壁が崩れて露出している。
柱のうえの浮彫漆喰には別のパターンの蔓草文。

大ドーム室に入って振り返ると、南ドームと礼拝室を隔てる壁が、巨大な柱を密に並べたようになっていて、ドームの荷重を支えるための、当時の工夫の跡がしのばれる。

西壁と広大な空間。
これがセルジューク朝、マリク・シャーの宰相ニザム・アル・ムルクが1080年頃に建造したともいわれ、深見奈緒子氏のヴォールティングの諸形態では、1083年建立、高さ24.5奥行14.4 間口14.3mとされるマスジェデ・ジャーメの主ドーム室。
10世紀初頭とされるブハラのサーマーン廟(内部7.2m四方、『シルクロード建築考』より)との大きさの違いに圧倒されてしまった。
移行部下の壁は白漆喰が残り、腰板は大理石。
両側通路のアーチには、小アーチが浅く彫られている。
『ペルシア建築』は、インスクリプションが語るところによれば、広間はニザーム・ウル・ムルクの命にもとづき、マリク・シャーの治世の初期(1072年以降、たぶん1075年以前)に建設されたという。
この広間-宏壮で気品があり侵しがたい威厳をもつ主礼拝室-は直径15.2mという巨大なドームをいただくが、その場合、ドームを支えるために彫りの深い三ツ葉形のスクインチ(この形はヤズドにあるブワイフ朝時代のダワズダー・イマーム廟のスクインチから発展したもの)が使われている
という。

1080年頃に建造されたともいわれ、深見奈緒子氏のヴォールティングの諸形態では、1083年建立、高さ24.5奥行14.4 間口14.3mとされるマスジェデ・ジャーメの主ドーム。
この大ドームは、暗い中ではところどころが金色に光っているようにも思えて、それにズームして撮したいと思ったが、なかなか難しい。下写真はできるだけ明るく編集したもの。
移行部には、アーチ形の小さな凹みとムカルナスを組み合わせて複雑な構造に造られている。詳しくはこちら
ミフラーブのある壁面。
ミフラーブには大理石の浮彫を囲んでモザイクタイルのインスクリプションや蔓草文があるが、ドーム築造時にはこのようなタイル装飾はなかった。
床面を写し忘れたが、セルジューク朝はスンニ派なので、ミフラーブ下にイマームの立つ一段低い凹みはないと思う。
南西礼拝室には立ち入ることはできない。ドーム室を見渡すと、南壁以外は巨大な円柱がドームを支えているようだった。
南通路から見た南西礼拝室のドーミカル・ヴォールトの一つ。
その下の礼拝室は修復中のよう。

南イーワーンへ

南イーワーンに出てムカルナスを見上げる。サファヴィー朝期のモアッラグ(モザイクタイル)を駆使した精緻なムカルナスも良いけれど、こんな風な大きなムカルナスの下も居心地が良い。
このイーワーンは、南ドーム室よりも後のセルジューク朝期に建てられた。無釉レンガと黒・トルコブルーのタイルを小さな正方形でムカルナスの縁やインスクリプションを表している。舗床モザイクのテッセラを思い起こす。
このイーワーンのおかげで、暗い礼拝室の柱廊を通らず、東門から中庭に入って大ドーム室へと入ることができるようになったという。

タイル面には凹凸があるものも。
『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』は1437年としているが、詳しくは後日
南イーワーンのムカルナスを中庭から眺める。
西イーワーンの前から。やっとドームが見えた。
立面図(『GANJNAMEH7』より)
北イーワーンより

ミナレットはティームール朝期(15世紀)に加えられたもの。バンナーイという焼成レンガの地に、ムハンマドやアッラーなどのインスクリプションを色タイルで嵌め込む、しかも巨大な文字で壁面を覆い尽くす、ティームール朝期に流行した技法。角張った文字はクーフィー体。
アザーン(礼拝への呼びかけ)を行う籠のような場所は木製で、その上にのった小ドームにはファティマの手が付いている。

    イスファハーンで朝散歩2← →マスジェデ・ジャーメ2 西翼

関連項目
マスジェデ・ジャーメ 南ドーム室
マスジェデ・ジャーメ、南東礼拝室のドーミカル・ヴォールト
マスジェデ・ジャーメの変遷
マスジェデ・ジャーメ3 北翼
マスジェデ・ジャーメ4 東翼
マスジェデ・ジャーメ チャハール・イーワーン
  
参考サイト
金沢大学学術情報リポジトリより 深見奈緒子氏のヴォールティングの諸形態 1998年

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「GANJNAMEH7 CONREGATIONAL MOSQUES」 1999年
「シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術選書32
「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London