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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年6月4日木曜日

サマルカンド歴史博物館3 宮殿の壁画1



何と言ってもアフラシアブの丘で出土した中で一番目を惹くのものは壁画である。サマルカンド歴史博物館の入口から入って、そのまま進むと壁画が展示されている部屋に入ることになる。
この想像復元図では、木製の平天井が四方を囲み、中央の4本の円柱に囲まれたところがラテルネンデッケとなっている。
ラテルネンデッケは日本語でいうと、三角隅持ち送り天井というが、それらは東漸して天井の意匠となってしまったが、中央アジアでは、古来より現在まで、室内の明かり取りとしての機能を持つ天井の構造である。
それについてはこちら

『中央アジアの傑作サマルカンド』は、サマルカンドのイッシュヒッド王朝は、ソグド公国にカンユイ時代から統治され、カン王朝に属していた。中国の史料によると、ホレズム王朝とブハラの支配者の両者とも、ユエジ系系の「ジャオウ家系」に遡るのだという。この家柄はクシャンと異なり、統治している黒海沿岸のサルマット遊牧民王朝に相似しているそうである。それは、硬貨にソグディアナとブハラ、ホレズム、そして古代の黒海沿岸のサルマット人と南西モンゴルの遊牧民の印がついていたことからもわかる。ソグディアナ、ブハラとホレズムにおける、古代サルマットの黒海遊牧民と南西モンゴルの印がつけられた硬貨の相似は、ユエジ系の「ジャオウ家系」がクシャンとは違い、支配するサルマット王朝に近いということを証明している。
支配権をもつ「ジャオウ家系」の王朝は、自身の世代をシヤヴシュ国王までアラビア侵略まで権力を守っていた。1965年には、アフラシアブで7-8世紀のイッシュヒッドの宮殿跡が発見された、宮殿は街の中心に位置し、1haの場所を占めていた。建物の全体は生ブロックで建設され、壁の上部や狭い通路の上のアーチと天井は生れんがで建てられていた。宮殿は数度にわたって建て直され、ムカンナの蜂起が鎮圧された70年代には、完全に破壊されてしまった。
イッシュヒッドの宮殿遺跡発見のなかでも特に卓越した考古学的な発見は、4本の木造の柱で支えられている屋根とイッシュヒッドの玉座の間であった。玉座の間は、壁画で飾られていた。中世初期のこれらのユニークな壁画は、現在、アフラシアブ博物館で見ることができるという。
カンユイは康居、ユエジは大月氏、生ブロック・生れんがは日干レンガ

『ソグド人の美術と言語』は、1993年にM.モーデによって、四壁の壁画は、ワルフマーン王が自らの王位の正統性を主張するプロパガンダである、という新たな解釈が提案され支持されている。
王の名は、客間の正面の壁に記されたソグド語銘文に現れている。漢文史料では「拂呼縵」と呼ばれているサマルカンド王にあたり、658年に唐の高宗から康居都督に任命され、ソグドの支配を任されたという。

西壁(正面壁)
『ソグドの美術と言語』は、客間の正面には、サマルカンドにおいて行われた盛大な式典の様子が描かれている。
王の姿は中央上部に描かれた可能性が高いが、その部分は残されていない。
場面の下方には特徴的な服装や冠を身に着けた外国使節の姿が描かれている。王の康居都督就任を祝うためにサマルカンドを訪れたと推定されるという。
残念ながら、正壁だというのに全体を撮った写真がない。横縞の服を着た人の奥が正壁です。
西壁の復元図

左端から

1 白い服の人物はソグド人
『HALL OF AMBASSADORS』は、裾の16本の縦襞に、ソグド文字で銘文がある。バルフマン王の各国の大使達との謁見の場面であるという。
白い服の人物は横向きで、後ろに長剣、前に長いホッケーのスティックが見えている。白い長衣の裾にソグド文字が長々と記されている(ピンボケ)。ここにワルフマン王の名が記されていたのだろう。
ところで、この壁画のある部屋に入る前に、別室で、この壁画についてのがどのようなものかを分かり易く紹介されているビデオを見た。これも韓国が制作したものだったと思う。
その中に英文で、ワルフマン・ウナシュが登場して、「大使」が口を開いたとあった。「」付の大使というのがよくわからないが、やはり白い服の人物が、外国からの使節団に口上を述べている場面だろう。
その人物は王の護衛のような人かな。
ただし、その銘文は、横書きだった。

2 西突厥人
同書は、長い編み髪をつけて、背中を見せて坐っているのは西突厥人で、王の護衛。上段右側の一団も同じという。

3 贈り物を持った大使たちの列
同書は、髭のある3人は剣をさげ、短剣を水平にして帯につけている。絹の丈長の衣装は、ササン朝で現れ、中国までもたらされた、円形文様の中に動物が表されたものだ。彼らは装身具と絹の反物を持っている。
白い顔と色黒の顔が交互に並ぶのは、ソグディアナには2つの人種がいたことを示すのと、画面構成にリズムをつけるためだ。中央の色黒の人物は、シャーシ(タシケントの古名)の大臣という。
近隣諸国の使者が並んでいる。この部分はすでに採り上げたことのある連珠円文やシームルグ文などの衣裳である。それについてはこちら

4 モンゴル族
同書は、その右の、もっと地味な服装の者たちはモンゴル族であろうという。
『AFROSIAB』の復元図には、地味とは逆の鮮やかな色彩の無地の長衣を着けた人物が2人、残っている。襟の裏に大きな連珠円文が見えている。

5 唐使節団

同書は、黒い帽子は、果物の房と絹の反物を運ぶという。
果物の房ではなく、束ねた繭を持っているのだろう。

6 西突厥人
同書は、外国からの使節団として登場しているという。
2つを繋ぐとこのような色彩に再現されるらしい。彩色が残らず輪郭だけの人物がはっきりと描かれている。
唐からの使者は、紅白の縞の反物を二人が運び、その後ろには生糸を抱える者、そして束ねた繭を提げる人などが表されている。その背後には、反対側を向いた西突厥人

続いての群像にも、それぞれ別の国から来た使節団が描かれている。
服装から、左の3人はソグド人、

7 不明
同書は、頭巾のようなものを被り、ブーツの中履きのままの者たちという。
この図と想像復元図とはかなり違ってしまっている。
8 高句麗人
同書は、2本の羽飾りの髪飾りを付けている。このような頭飾りは高句麗のものだ。高句麗は699年に唐に併合されるが、それはこの壁画制作のすぐ後のことであるという。
高句麗は668年に唐と新羅によって滅ぼされ、統一新羅時代になったことになっている。
拡大するとこのようになる。

9 槍立て
同書は、右端の風変わりなお面のついた仕掛けは槍を立てかける器具であるという。
風変わりなお面?
想像復元図では太鼓のように描かれている。

壁画の最下段には大きな渦巻くような力強い植物文あるいは蔓草文、その上を連珠文が四壁を巡り、その上に様々な場面が展開している。

『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、これらの壁画はその内容から、唐の宗主権がこの地に及んだ655年以降に描かれたものであり、描かれた対象の情報量の多さや貴重なラピスラズリを多用するなど、ソグドの盟主サマルカンドの壁画らしい壮大さを持っているという。

     サマルカンド歴史博物館2 サーマーン朝の建築装飾← 
                →サマルカンド歴史博物館4 宮殿の壁画2

関連項目
アフラシアブの丘が遺跡になるまで
アフラシアブの丘を歩く
サマルカンド歴史博物館1 ソグドの人々の暮らし
サマルカンド歴史博物館5 宮殿の壁画3
連珠円文は7世紀に流行した
連珠円文の錦はソグドか
慶州天馬塚の冠飾
ラテルネンデッケの最古はニサではなくトラキア?

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「AFROSIAB」 2014年 Zarafshon
アフラシアブ博物館絵葉書
『HALL OF AMBASSADORS』という小冊子
「ソグド人の美術と言語」 曽布川寛・吉田豊編 2011年 臨川書店
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」キュレイターズ、2005年