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中央アジア各国の旅行記が完成したので、西アジアのイラン旅行をまとめています。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2016年12月15日木曜日

「加藤の家」そしてダルヴェルジン・テパ遺跡


ハルチャヤン遺跡を見学後、M41号線に戻り、また左折して別の集落の狭い道に入って行った。
Google Earthより
かなり探し回って、やっと「加藤の家」に到着。
Google Earthより
バスは敷地内に入り、奥の方で停まった。近隣の人々が世話をしているようだった。
ニワトリが歩き回り、七面鳥もいた。七面鳥は動きが速くピントが合わなかった。
日干レンガの壁には燃料用の牛糞を貼り付けて乾燥させていた。姿は見えなかったが、かなりの数が飼われているらしい。
貯水池の縁には、出土物?が並んでいた。
そしてこれが「加藤の家」。
毎年6月にカラ・テパ遺跡の発掘のために来られるそうだが、ここからカラ・テパ遺跡まではかなりの距離がありそう。
出土品を保管する建物だろうか、外に柱礎が置かれていた。
背の高い柱礎だなと思ったら、大きなものの上に少し変わった浮彫のある小さな柱礎がおかれているのだった。

『偉大なるシルクロードの遺産展図録』でバハディル・トゥルグノフ氏は、ダルヴェルジン・テパは、ウズベキスタン芸術研究調査団により長年にわたり組織的調査が行われてきた遺跡の一つである。ダルヴェルジン・テパ遺跡は、広大なスルハンダリヤ流域に接するスルハンダリヤ州ダルヴェルジン村の中に位置する。筆者は、城砦址北西正面の城壁で最初の試掘調査を行った。ここでは、大都市の宮殿を取り込んだ、厚さ9.6mに及ぶ城壁が発見された。
その築造期は、グレコ・バクトリア時代(紀元前3-2世紀)に遡り、総面積5haの小規模な集落が形成されたときのことである。凡そ紀元前後、クシャン朝時代には、集落は宮殿としての城砦に拡大、発展していった。城西の北側に都市(42ha)が形成されるに伴い、城砦と都市そのものは、厚さ8-10mの防壁によって囲まれていったという。
グレコ・バクトリア時代には、南端の小さく高い丘の方で人の居住があり、クシャーン朝時代になると、そこはシタデルとなり、隣接する広大な土地に城壁を巡らせ、住区としたようだ。

同書は、防壁の内部には、大通りと狭い道が格子状に走り、全体を幾つかの街区に分けていった。ここには、大富豪の邸宅や単層からなる家屋の住区、焼き物職人の住区、土着の女神に捧げられた神殿や仏教寺院などの信仰施設が含まれた。また城砦の外側では、単層からなる家屋をはじめ、庭園、ブドウ畑、農地、集団墓地が確認された。さらに都城址から北へ500mの地点で、別の仏教寺院も発見、調査された。
クシャン朝時代(紀元2-3世紀)には、都市では、手工業が急速に発達した。焼き物職人の住区では、一列に並んだ11基の窯址が発見された。そこでは、家庭用や祭儀用の土器が製作された。
都市の大部分は、住民の住居址で占められていた。住居の間には、道や広場、貯水槽、小規模の庭園が設けられていた。
とりわけ注目されるのが、二棟の大富豪の邸宅である。邸宅は、其々16室と24室あり、大広間、台所、食堂、大人と子供の部屋などに別れていた。これらの部屋の一室では、床面から、象牙でできた世界最古の将棋の駒や女性用の櫛、サイコロが出土した。
またこの邸宅の部屋の床下に隠されていた壺の中から総量約36㎏の黄金製品が出土しており、学術的に重要な遺物である。
上述したように、ダルヴェルジン・テパ遺跡では、2つの仏教寺院址が発見された。第一仏教寺院址は1967-68年に、1983年に筆者とプガチェンコワ博士により調査が行われ、第二寺院址は、1983年に筆者により発見、調査が始められ、その後加藤九祚博士を団長とする創価大学の調査団が1993年まで発掘作業を行ったという。 

ダルヴェルジン=テペの調査という林俊雄のページには、1978年にE.B.ルトヴェラーゼの都城址の平面図があるが、2016年のGoogle Earthで見られる遺構とはかなり違う。
第二寺院址は、城壁の外、もっと北にある。
その平面図を基に、Google Earthの画像に当時あったものを書き込んでみた。
Google Earthより

『ダルヴェルジン=テペの調査』は、ダルヴェルジンとはモンゴル語で「四角形」を意味し、テペはペルシア語で「遺丘」を意味する。その名の通り、この遺跡は長方形の城壁で囲まれている。面積は36ha以上あり、城壁は総延長約2.5km、その厚さは10mに達する。
この地域では灌漑農耕は早くも前2000年紀から始まり、前1000年紀前半ごろには防御施設を備えた都市型の文明が形成されていた。前6-4世紀にはアケメネス朝ペルシアの領域に入り、アレクサンドロス大王の遠征(前323年)以降は一時セレウコス朝に属したが、前3世紀中ごろからグレコ=バクトリア王国が独立した。前2世紀後半には北方から大月氏が侵入し、後1世紀には大月氏の五翕侯の一つ貴霜(クシャン)が覇権を握り、勢力をアフガニスタンからインド西北部にまで広げた。しかし3世紀になるとササン朝ペルシアに占領され、3-4世紀にはいわゆるクシャノ=ササン朝と呼ばれる従属国家となった。4世紀後半から5世紀はキダーラやエフタルなどの遊牧民が侵入し、それまでの社会制度は一変することになる。このようなバクトリアの古代都市文化を明らかにするうえで、最も理想的な遺跡がダルヴェルジン=テペである。
遺跡は南部のほぼ円形の内城部分(直径170-200m)と長方形の都市部分(650X500m)からなる。都市を囲む城壁には30-40mおきに望楼があった。文化層は内城では6-7m、都市では5-6mに達する。内城は自然丘の上に造営され、その東北部にはイスラム教徒の墓地と聖者廟(マザール)があったという。
見学したのはこの内城だった。

「加藤の家」から集落の狭い道を10分、バスは土の丘の前で停まった。すでに太陽は傾いているが、これからこの丘の上に登っていく。
何かの遺構がありそうだが、セルゲイさんはどんどん先へ歩いていく。
こんな大穴があるのだけど・・・
セルゲイさんの目的地はここでもなかった。
現在の墓地の入口は閉じられている。
左端から奥へ向かっていくが、なにやら砂が舞い上がっているような気配が。
シャフリスタンには城壁が今も残っている。
土煙が上がっているように感じたのは、脱穀というのか、刈り取った作物を大きなフォークのような道具で空に舞いあげているのだった。
その辺りで32㎏もの黄金製品が入った壺が発見されたのだという。その場所をセルゲイさんは我々に伝えたかったのだ。
ここで日没、17時45分。秋の日は本当に釣瓶落しだ。
バスまで引き返すと、家畜と共に帰宅する人が通っていった。
M41号線に出たバスは、テルメズに向かってひたすら走っていく。道路の横には線路があったが、暗くて写っていない。
この写真が本日最後の1枚となった。
一度しか見られない景色と思って、日中はできるだけ車窓から眺めているが、暗くなっては何も見えない。時たま町に入るとスピードが落ちたり、停まったりしたのは覚えているが、気がつくとテルメズのホテルに着いていた。午後8時頃。

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出土品
ハムザ記念芸術研究所2 ダルヴェルジン・テパの出土品
テルメズ考古博物館1 1階展示室

※参考サイト
ダルヴェルジン=テペの調査 林俊雄

※参考文献
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ