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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年6月11日木曜日

サマルカンド歴史博物館5 宮殿の壁画3


北壁
一見しただけでは何もわからないような壁画である。
その想像復元図
『ソグド人の美術と言語』は、ワルフマーン王の名は、客間の正面の壁に記されたソグド語銘文に現れている。この王は、漢文史料では「拂呼縵」と呼ばれているサマルカンド王にあたり、658年に唐の三代皇帝高宗から康居都督に任命され、ソグドの支配を任されている。壁画の舞台は中国で、女性が優雅に船で遊んでいる様子と、男性が勇敢に猛獣と闘っている様子が表されている。ワルフマーン王は、文化的にも、軍事的にも優れた唐の後ろ盾を得ていることを、この壁画によって伝えようとしたと考えられているという。
21の一際大きく描かれた人物が当時の唐の皇帝高宗ということになる。

17 皇后の舟遊び
赤い舟に乗った皇后は、様々な生き物が泳ぐ水面を見つめている。
21が高宗なら、舟中央に乗っているのは皇后の則天武后ということになる。
女官たちは舟の中で楽器を奏でているらしい。

『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、衣服など唐風の描法は、直接中国から輸入された絵画を元に描かれたものと思われるという。
ソグド人だけでなく、モンゴル人も来ていた連珠円文の衣服だが、唐でははやっていなかったらしい。
それについてはこちら
船首は金色の鳳凰かな。
則天武后の顔
上図の『HALL OF AMBASSADORS』の則天武后とも違った顔のようにも思えるが、この壁画は7世紀後半に入ってすぐに描かれているので、貴重な若き日の肖像画ということになるのかな。

18 水面の生き物
船首の横にはウナギのような魚がカエルを追いかけ、その下には、小さな魚が集まっている。皇后がエサでも撒いたのだろう。カイツブリがいたり、蓮華が咲いていたりと、長閑な光景である。
『HALL OF AMBASSADORS』は、山羊の鼻面と蛇の尾を持つ有翼の龍という。
日本では龍は見慣れた図像だが、当時のソグド人にとっては、このようよな怪獣としてしか認識できなかったのかも。
その右下の首を伸ばして泳いでいる鳥はバンかな?

19 水際の渡河
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、水面に皇后と女官の乗る小舟が佇む場面と兵士が水しぶきをあげ猛々しく渡河する場面が静と動、対比的に配されているという。
その右に舟がもう一艘。その下には馬が泳ぎ、それを男が追うという、動きのある場面となっている。
更に下では、ヒナが親鳥のもとに集まり、エサをねだっているが。
細長いS字状の線は、池と陸の境界を表しているようだ。

20 狩り
一方、陸では馬に乗って狩りをしている。
長い槍で獲物を射ようとする姿は、当時の唐の様子を描いたというよりも、ソグディアナでは以前から行われてきた狩りの光景で、絵画の題材としても一般的なものだったのだろう。馬が水平に近い足の開き方をしている。
その背後で箱を差し出している人物がいるが、獲物を入れるためのものだろうか。

21 高宗の豹狩り
とはいうものの、一際大きな馬の姿だけで、高宗は剥落してしまっていて残念。
しかし、肢の下に一頭の豹が倒れており、皇帝の前にもう一頭、背を向けて首を皇帝に向けている。高宗の長い槍はすでに豹の肩まで届いている(想像復元図より)。
それで思い起こすのは、サーサーン朝ペルシアの帝王の狩猟図。


帝王ライオン狩り文皿 サーサーン朝(4世紀) 銀・鍍金 径28㎝ ギーラーン州サーリー出土 テヘラン、イラン・バスタン博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、下方のライオンはすでに死んでいるが、もう1頭のライオンは王侯に背を向けているので、この狩りはライオンを背後から追跡する追跡型狩猟を再現しているといえよう。この形式の狩りは獲物と対峙する勇壮な対決型狩猟よりもやや遅れて銀製皿に出現したと推測されるという。
『季刊文化資産13古代イラン世界2』は、獅子は悪霊のアーリマンであり、それゆえ帝王の獅子狩の場面は悪を抹殺する王の勝利を表徴するものであったという。
前向きに馬にまたがり、後ろを振り返って獲物を射る、パルティアンショットになっているのが、高宗の獅子狩りとの違いである。
アッシリアの浮彫に見られる王のライオン狩りは、実際に狩りをして、王の強さを示すものだったが、ササン朝では帝王がライオン狩りをしていたのではなさそうだ。唐で豹あるいは肉食獣を皇帝が狩っていたというのは聞いたことがないので、これも皇帝の力の誇示だろう。


22 飛び掛かる豹を槍で突こうとする場面
馬は、20のように疾駆するのではなく、ほぼ立ち止まっている。

東壁は中央が出入口になっていることと、保存状態がよくないので、ほとんど何が描かれているのかわからない。

東壁北側
上図の馬の後肢が左端に見えている。それに続く東壁では、人物が横向きに腰掛けて、鞠をついている。
その右には、しやがんで鞠つきを見ている人がいる。 その左は右向きの馬が描かれていて、人が乗っている。
そのように、別室で見たビデオでは再現されていて、出入口で終わっている。

出入口右側(東壁南側)
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、東の壁には、海で泳いでいる青年と鳥、動物が描かれているという。

右端には人が立っているらしい。連珠文の上には魚や鳥が並んでいる。

泳いでいる牛のような動物の綱を引っ張っている人物の白い腕が目立つ。
カモのような鳥

左に2人の人物
その左側の出入口までは撮っていないが、ビデオによると、弓矢を構える3人の兵士が描かれていたようだ。

『ソグド人のの美術と言語』は、7世紀半ば、ソグドが経済的にも文化的にも最盛期を迎えた時期であるが、8世紀に入るとソグドのまちは、次々とアラブ軍によって占拠される。サマルカンドは712年に包囲され、グーラク王はイシュティハンに移る。グーラク王は717年、唐の玄宗に手紙を出し、712年にアラブ軍が、300基の投石機を設置して城壁に坑をあけたことを記し、援軍を送ってくれるように依頼しているという。
タラス川の戦いは751年、グーラク王はそのずっと以前に、アラブ軍に降伏したんだろうなあ。

     サマルカンド歴史博物館4 宮殿の壁画2

関連項目
アフラシアブの丘が遺跡になるまで
アフラシアブの丘を歩く
サマルカンド歴史博物館1 ソグドの人々の暮らし
サマルカンド歴史博物館2 サーマーン朝の建築装飾
サマルカンド歴史博物館3 宮殿の壁画1
連珠円文は7世紀に流行した
連珠円文は7世紀に流行した2

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「AFROSIAB」 2014年 Zarafshon
アフラシアブ博物館絵葉書
「HALL OF AMBASSADORS」という小冊子
「ソグド人の美術と言語」 曽布川寛・吉田豊編 2011年 臨川書店
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ 
「季刊文化資産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団