お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年6月15日月曜日

シャーヒ・ズィンダ廟群1 表玄関にオリジナルの一重蔓の渦巻


サマルカンドの外れにあるアフラシアブの丘は、チンギスハーンの侵攻を受けるまで栄えた街だった。その丘の斜面に墓廟群がある。
サマルカンド歴史博物館にあった模型では、正面に再現されている。
アフラシアブの丘からは見えなかった。

9-12世紀のサマルカンド
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、10-11世紀において、チュルコ王朝のカラハニドー族とガジネビドー族の攻撃により、サマニド国が崩壊した。11世紀の中頃には、西のカラハニドー族はサマルカンドを首都にして自立した国家を創った。当時は、サマルカンドの最 盛期であった。そこに、10万人が住んでいた。
シャフリスタンだけではなく、外の都市も城壁で囲まれていた。城塞には宮殿が建築さ れた。12世紀前半、サマルカンドではアフマド・アル・ハマダニの高僧が説教した。11世紀末には、カラハニドー族は自身らを西のイスラム界を征服した チュルコ王朝のセルジュキドー族の臣下として認めた。1141年にセルジュキドー族のスルタン・サンジャルと彼の臣下のカラハニドー族のマフムド・カンの 軍隊は、契丹人に撃滅された。その戦闘で殺された数千人の軍隊は、サマルカンドのチョカルディザ墓地に埋葬された。カラハニドー族はサマルカンドの支配権 力を守ったが、契丹人の支配者の臣下になったという。
チュルコはテュルク、カラハニドーはカラハーン、セルジュキドーはセルジューク朝、ガジネビドー族はガズナ朝、サマニドはサーマーン(以下、日本風の読み方にします)。
その頃すでに、現在の位置にクサム・イブン・アバス廟があった。
同書は、カラハーン朝時代に、アフラシャブの南東部にクサム・イブン・アバスの記念館が建設されたあとは、そこがサマルカンドの神聖な場所の一つになった。数世紀にわたり建設された廟やモスクが、シャヒ・ジンダの廟群を形成した。モンゴルの治世にも記念館は破壊されず、そこは大きな意味を持っていた。
最初のマウソレウムは記念館の北部に1360-1370年の間に造られた。
巨大な帝国の創設者アムール・チムール(1370-1405年)の時代には、マウソレウムは城壁の崖まで建設された。
アムール・チムールの孫ウルグベク(1409-1449年)の時代には、シャヒ・ジンダの建設は15世紀初めに斜面に沿って下方に続いており、19世紀には入り口の近くに最後の建物が建設された。21世紀の初めには、廟群のなかで破壊された廟が修復された。シャヒ・ジンダの美しさは死を否定し、永遠に続く生命の変化を表現しているという。

西より眺めたシャーヒ・ズィンダ廟群
その向こうには、うっすらと雪の残った天山山脈が。

東から見たシャーヒ・ズィンダ廟群
青い2つのドームのある廟の低い一つは木に見え隠れする。

同書の番号順にみていくと、

1 浴場 16世紀初めごろ
妙な色の屋根が架かっていて、
遺構が変な色に染まってしまったので、白黒にしました。これもヘンか・・・

2 表玄関 15世紀
4 下のモスクのドーム(左) 1434-1435年建立
表玄関の開口部上には、木の透彫で、優美な蔓草文とアラビア文字が表されている。
その上には左右対称に、大きなロゼット文と色の違う2本の細い蔓草文が渦巻く。
更に上には四角形の植物文の絵付けタイル。どこまでがオリジナルかな。
しかし、その左側には、オリジナルの大判絵付けタイルが残っていた。
華麗なアラビア文字の地に細い空色の一重蔓が渦巻いている。文字の色はどう言えばよいのだろう。

3 第1のチョルタック 1434-1435年
必ず門をくぐるとこのようなドームになっている。1つのところもあるが、大抵はドームは2つ続いている。
このドームを支えているのはアーチ・ネットではない。四隅のスキンチには2つの大きなムカルナスがあるものの、正方形、八角形、十六角形、円形という移行の仕方とは異なっている。

4:下のモスクへの入口を見損ねた。
チョルタックを出て振り返る。先ほどの白いドームの外側は妙な形をしている。これがオリジナルとは思えない。


5 夏のモスク 19世紀半ば
建物の外側のアイワン(柱廊)を暑い夏に礼拝所として使った例はウズベキスタンではよく見かけた。しかし、今は巡礼者の休憩所に。
これらを上から眺めた図版。

6 ダブラト・クシベギ・メドレセ 1812-1813年
今はフジュラ(寄宿舎)の中庭に山羊がいるのみ。
上から眺めると、フジュラの並び方や、教室やモスクのドームと共に、木の茂る涼しげな中庭もよくわかる。

7 16-18世紀の建物の廃墟
8 中央部のテラス

9 2つのドームの廟
通路の左側にどっしりと立つ大きな墓廟。

                      →シャーヒ・ズィンダ廟群2 2つのドームの廟

関連項目
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの
イーワーンの上では2本の蔓が渦巻く
シャーヒ・ズィンダ廟群3 アミール・ザーデ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群4 トグル・テキン廟
シャーヒ・ズィンダ廟群5 シャディ・ムルク・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群6 シリング・ベク・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群7 八面体の廟
シャーヒ・ズィンダ廟群8 ウスト・アリ・ネセフィ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群9 無名の廟2
シャーヒ・ズィンダ廟群10 アミール・ブルンドゥク廟
シャーヒ・ズィンダ廟群11 トマン・アガのモスク
シャーヒ・ズィンダ廟群12 第3のチョルタック
シャーヒ・ズィンダ廟群13 クサム・イブン・アバス廟
シャーヒ・ズィンダ廟群14 クトゥルグ・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群15 トマン・アガ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群16 ホジャ・アフマド廟

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社