お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年5月27日水曜日

アムール・ティムールの門を通ってサマルカンドへ


ウズベキスタンの地図

右手に城壁の遺構かと思うような連なりが見えてきて、通り過ぎたと思ったら水路が見えた。幅広の水路を掘った残土が遺跡のように積み上げられているらしく、遠くの方まで続いていた。
遠くにはまだその残土の壁があるが、近くには高架式の水路が縦横に走っている。牛や羊の放牧はあちこちで見られた。

所によっては菜の花畑も広がっていた。

ジザクという町で二度目のトイレ休憩の後、踏切に遮断機が下りていた。
マリカさんは、皆さんはラッキーです。なかなか通らない列車を見ることができましたという。
踏切の右の小さな建物の屋根で作業をしている人が手を振っている。

やがてザラフシャン川を渡る。最近雨が降ったのか、水かさは高くないものの、濁流の川だった。
町を過ぎると右岸に先ほどの鉄道が見えてきて、道路も右カーブのまま、両側が岩の崖となった狭い箇所へと吸い込まれていく。
アムール・ティムールの門です。ティムールはここを通って中国へと遠征しましたが、途中で亡くなりました。このあたりは美味しい蜂蜜の産地です
サマルカンドのシヨブ・バザールでも売っています
先ず右側の崖を撮る。

しかし、左側の崖を撮ろうと振り向くと、もう遠くに去ってしまっていた。
右手に川と低い山並みという風景が変わる頃、アフラシアブ号がタシケントに向かって走って行った。カメラを取り出すヒマもないくらい速かった。

いつの間にか左の車窓には雪の残る天山山脈が現れていた。
手前の葡萄畑には、やっと葉の出始めたブドウの木の間に、真っ赤なケシの花が目立つ。
トルファンでは葡萄棚を作っていたが、ウズベキスタンではヨーロッパと同じ育て方だ。どのあたりで変わるのだろう。
そういえば、ラクダも中央アジアでフタコブとヒトコブに分かれるという。
天山山脈に見とれていると、段々ほこりっぽくなってきた。
前方を見ると舗装工事中の道路を行く車のたてる土埃だった。
天山山脈がまたくっきりと見えてきた。
右側にはCHOPON’OTA SAMARQAND-2750と山肌に書かれた文字が見えた(何故か写ったのはその右半分)。川を渡るといよいよサマルカンドの街。

街に入って中心部を抜け、ザリファさんの民家レストランへ、もう13時30分。

ここには葡萄が棚になっていた。ひょっとすると、中央アジアでは棚にするのが伝統的で、道中で見かけたヨーロッパ風の葡萄栽培は近年採り入れられたものかも。
果樹の植わった中庭の先にテーブルが用意されていた。
暑い季節には家族で中庭で食事をするという。
前菜の数々とウズベキスタン一美味しいといわれるサマルカンドのナン、小ぶりのリンゴ。
中央の生野菜の上にニンニクが一株のっている。勇気のある人が挑戦したが、日本のと同じ強烈な味だったという。
食器はウズベキスタンの花、綿花(パフタ)を表した濃い染付の磁器。
銘々皿に前菜を盛る。
左から手前に、浅漬け、レーズン、小さなピーナッツ、素揚げしたヒヨコ豆、ヨーグルト。
パン皿に焼きたてのサムサが配られた。
お皿には、濃紺の釉薬を塗り残して文様にした綿の花の輪郭を細い金の線で描いている。それが文様からずれているのが味わい。
そして食べたかったウズベキスタンの伝統料理プロフ。黄色や赤のニンジンは、パプリカかと思うくらい柔らかかった。
プロフが西に伝わってフランスのピラフとなり、東に伝わって中国のチャーハンになりました
シルクロードの中央に位置する国ならではの言葉である。
デザートはチャクチャク
細長い麺状のものを揚げて密に浸し、固めたものを切ったよう。甘すぎなくて良かった。
壁際にはナンを焼く窯、おくどさん、そして薪。民家の代表的な台所が再現されている。

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※参考文献
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年