お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年2月9日水曜日

9-6 サンタニェーゼ教会(Sant’Agnese Fuori le Mura)に7世紀前半の金地モザイク

カタコンベの見学が終わり、階段を上って出てきたのは後陣のそばだった。カタコンベに下りる前は暗かったが、今は照明がついて明るくなっていた。写真を撮っている人がいたので我々も撮っても構わないだろう。

『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、伝説によるとコンスタンツァが聖アグネスの墓で病気の治ることを祈ったところ、聖母が現れ、彼女にキリスト教への改宗を勧めた。それで、さっそくキリスト教の洗礼を受けるために建てたのがこの円形洗礼堂であり、すぐ隣にあるサンタニェーゼ・フォリ・レ・ムーラ(337-350)は、続いて聖母のために建立されたものであるといわれているという。
『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、4世紀中頃建造のローマの聖アグネス記念墓地教会は老朽化し、620-630年代にまったく新しい教会が、そこから数十m離れた聖女の墓の真上に建てられたという。
聖アグネス記念墓地教会が創建された場所がコスタンツァ廟の北のU字形の遺構だ。7世紀の聖堂よりずっと大きい。

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『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、初期キリスト教建築の素晴らしい傑作の一つである。この建物の平面形式はサンタ・コスタンツァとは対照的なバシリカ形式で、中央の身廊の両側に側廊を持つ三廊式で、側廊は上階のある二層式となっているという。
我々は後陣のモザイク壁画ばかり見ていて、天井がどのようになっているか見上げることもなく、2層となった側廊に気づきもしなかった。これが反省点。
別の場所に再建されたとなると後陣のモザイク壁画も7世紀のものだろう。この身廊にもクワイヤがあるために後陣に近づけない。
照明がないのでよく見えなかったこともあって、勝利の門(後陣上方の壁面)さえも見なかった。これはどの文献にも載っていないので、後世のものだろう。
できるだけ近づいて撮るとこんな風になってしまう。実際には金色はもっときれいだった。ビデオに「レンズを通すよりも実際の方がもっときれい、もっと金色が濃い」などという私の声が入っていた。
3人が正面を向いて立っている。コスタンツァ廟の小壁龕の4世紀のモザイク壁画トラディティオ・レーギス(Traditio Legis)に比べて、背景が金色で煌びやかだが、人の動きがない。
『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、まず中央に聖女アグネスが、自らの殉教の徴(しるし)である剣と燃えさかる炎とともに描かれている。聖女はビザンティン皇妃のように冠を着け、玉石飾りの華美な衣装をまとっているという。
金地の玉石飾りはアクセサリー類か器物に付けられたものだと思っていたが、衣装にもあったのか。鎧のように硬くて重い衣装だったのではないだろうか。
貴石の象嵌細工はかなり古くからある技術だが、西欧に伝播したのは、民族の大移動の時代だったというようなことを何かで読んだような気がするが、確かではない。
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オレンジ色の炎が聖アグネスが火あぶりにされたことを示しているが、剣は何を表しているのだろう。最終的に刺し殺されたのかも。
顔も衣装も平面的。足元の炎だけに動きが見られる。いや、よく見るとサンタニェーゼの右足は白い台から半分出ている。靴が炎と同じ色だ。
ピンボケ気味だが、金箔テッセラが煌めく様子がわかる。これについては、乱反射するように壁面に不揃いに嵌め込んでいくという説と、テッセラを埋め込むと一つ一つに自然に傾きができて乱反射するのだという説がある。
向かって左側で教会堂の模型を持って立つのは、献堂者たる教皇ホノリウス1世(在位625-638)という。
教会を建ててサンタニェーゼに奉献するという行いを教会の雛型を持たせて表現するのはビザンティン美術でも行われている。
しかし、サンタニェーゼの顔と比べると立体的な表現となっている。
反対側で聖書を手にする人物は6世紀初頭の教皇シュンマクス(在位498-514)と考えられているという。
こちらも顔の表現がサンタニェーゼよりも陰影の表現がある。
聖書にも玉石飾りが見られる。この時代、いろんなものに玉石飾りを付けることが流行していたのだろうか。
構図全体を眺めると、6世紀末のサン・ロレンツォ教会のモザイクが経験した様式上の急激な変化を、いっそう加速させたものといえる。正面向きで硬直し、厳格な左右対称のもとに、無機質な金地に立つ人物像、完全に緑の帯となった緑野など、幾何学的な単純性を追求しつつ、従来とはまったく異なる、いわば中世的な空間秩序を創出する意欲がうかがえるという。
アプシス頂部の半円枠内に描かれた星空や雲間の神の手という伝統的な表現も、ここではまったく図案と化しているという。
写実的な表現というのは野蛮な多神教の美術であるとして、キリスト教世界では拒否され、平面的な表現となっていったというようなことを何かの本で読んだことがある。それはビザンティン美術についての本だったと思うのだが、ビザンティン帝国だけでなく、西欧でも同じような動きがあったのだなあ。
こうして明るい照明の下、サンタニェーゼ教会の7世紀のモザイク壁画も見ることが出来た。朝からいろんなものを見てきたが、コスタンツァ廟といい、カタコンベといい、金箔テッセラが教会の壁面装飾に用いられるようになった最初期と思われるものを見ることもできて、満足してサンタニェーゼ教会を後にした。

帰国したらゆっくりとサンタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)の本を見よう。ところが、段々と心配になってきた。本当にその薄い本を買ったのだろうか。
ホテルに戻ってリュックの中を確かめると、やっぱりなかった。カタコンベから出てきて、サンタニェーゼの後陣モザイクに魅入ってしまったために、事務所に戻るのを忘れていたのだった。

※参考文献
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」(陣内秀信 2000年 建築資料研究社)
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂」(香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社)
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」(1997年 小学館)