お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年10月14日金曜日

2-3 スレイマニエ・ジャーミイ1 ミマール・シナンが造った巨大ドーム

Mさんは突然歩くのを止め、ここがスレイマニエ・ジャーミイだと言った。
『建築巡礼17イスタンブール』は、「ある朝、神の恩寵に恵まれた我がスルタンのお胸に、モスクを建立せんとの思いが浮かんだ。陛下の憐れな卑しき下僕、シナンは御前に召し出され、モスク建設についての言葉を奏した。そして、原案が認められ、高貴なモスクの用地が決められた。」
シナンの自伝によれば、オスマン帝国とその首都イスタンブルの栄光の象徴であるシュレイマニエ・ジャーミの建設はこのようにして始められた。

第三の丘の突端、やや急な斜面にたつこのモスクは、1550年から8年の歳月と巨額の建設費をかけて建設された。このモスクも周囲に付属施設を持ったキュリイェを構成するが、総施設は20にものぼる例外的に巨大なものである。
モスクは通常のモスクと同様、礼拝堂と前庭、礼拝堂背後の墓地からなるという。

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そのスレイマン大帝家族が葬られた墓地の横を素通りしてしまった。どこに入口があったのだろう。 
墓地が終わって3つの小さなドームが並んだ柱廊も通り過ぎる。その上にはロンデル窓。
その先で石段をのぼり、Mさんはここから中に入ろうと言っておもむろに靴を脱ぎ始めた。
中庭から入るのではないの?やっぱりモスクはスルタンアフメット・ジャーミイのように、前庭からドームの重なり合いを眺めてから中に入りたかったのに。
平面図は、後に造られたスルタンアフメット・ジャーミイと大差ない、そのように思っていた。
モスクの礼拝堂はほぼ正方形であるが、実際の寸法は58.5mX57.5mと横方向がわずかに長い。中央のドームは直径27.4m、頂高47mで巨大なピアと周辺の構造によって支持されるという。
ブルーモスクは中央ドームの径23.5m、頂高43mなので、ブルーモスクよりも大きい。
しかし、どうもスルタンアフメット・ジャーミイのような広い空間に入ったという感覚がなかった。
前庭のある側の半ドームには、スルタンアフメット・ジャーミイ同様3つの小さな半ドームがある。そして小半ドームの両端の下にはムカルナスが4段ほど見える。
半ドームの下まで進んで大ドームを見上げる。
修復できれいになりすぎた
本当に新しいという意味で綺麗すぎる。
スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)よりは広がりがない。それはアフメット帝の建てたモスクが大ドームの四方に半ドームがあるのに対して、スレイマニエ大帝のモスクは半ドームが2つしかないからだ。
大ドームの東西に半ドーム、南北に窓のたくさんあいたタンパン、これはアヤソフィアを小さくしたものだ。
そうだ、後に造られたブルーモスクと比較すること自体あほなことだった。スレイマニエ・ジャーミイはアヤソフィアを手本に造られたものだったのだ。
『オスマン帝国の栄光』は、オスマン朝の建築家たちの夢は、直径31m、床から頂点までの高さ54mのドームをもつ、アヤ・ソフィアという模範に追い付き、凌駕することだった。しかし、ドームの球体がより大規模になり、内部空間が広がっても、礼拝堂の立方体とドームの球体との接合はぶざまなままだった。建物の異なる部分相互の調和と統一は、まだ実現をみていなかった。それがミマール・シナンの仕事となる。
シナンはオスマン帝国の古典的モスクの規範を定めた。彼の建築は中央に大ドームを配し、ピラミッド型に天空にそびえ立つ。一段一段ドームへと高まる、均衡をとって重なる量感は、無数のステンドグラスで和らげられた光が思い思いに射し込む巨大な内部空間の整序にも現れているという。
スルタンアフメット・ジャーミイを見た後なので、そんなに巨大な空間とは感じなかったが、建設当時はアヤソフィアに次ぐ巨大な建造物だったのは確かで、しかもそれはミマール・シナンの仕事となる。という優秀な建築家がいればこそ実現できたことだった。
様々な本を読み、年月を経て、いつか私は、オスマン朝期に地震で崩壊したアヤソフィアの大ドームをミマール・シナンが修復したのだと思っていた。そして、その時習得した、巨大な正方形の平面に大ドームを架構する技術を、スレイマン大帝の望みに従って採り入れたが、アヤソフィアの大きさには及ばなかったのだと。
しかし、どの本を読み直しても、スレイマニエ・ジャーミイを建設する以前にアヤソフィアの大ドームが崩壊するほどの地震があったという記述もなければ、それをシナンが造り直したということを記したものもなかった。あるのは、アヤソフィアの修復に時々シナンが携わったというくらいの文だった。
アヤソフィアの後陣との違いは、大半ドームの下が3つの小半ドームではなく、中央のミフラーブのあるところが、アーチと平たい壁面になっていることくらいだ。
やっぱりこのモスクも中央から向こうは柵があって礼拝者専用になっているので、ステンドグラスを近くで見ることはできない。
スレイマニエ・ジャーミイはシナンが造ったこと、アヤソフィアに次ぐ大ドームであること以外に、素晴らしいイズニクタイルがあるということも、今回見学する理由一つだったが、そのタイルの壁面が見当たらない。
ブルーモスクと違って、ミフラーブの周囲くらいにしかタイルは使われていないようだ。
ミフラーブの上。赤い色は使われていないが、その斜め下にアーモンドのような花の咲いた枝が、下のステンドグラスの尖頭アーチとの隙間に表されている。赤い色もはっきりと確認できる。トプカプ宮殿で見たものとよく似ている。
ステンドグラスの周囲もタイルが使われている。
考古学博物館のチリニ・キョスクではイズニクタイルで赤い色が使われるのは16世紀後半で、年代が特定できた最も初期のものが1570年だったが、1557年に完成したスレイマニエ・ジャーミイのタイルに、すでに赤い色が使われていた。 
ステンドグラスの下側には中央の幾何学的な細かいモスクからアラビア文字が放射状に出て、肥痩のある曲線で終わる面白いデザインだが、これもタイルだということが、格子状の線でわかる。
タイルは遠くからしか見ることはできなかったが、赤い色が確認できたことで良しとしよう。
大ドームはペンデンティブが支え、小ドームや小半ドームはムカルナスが支えるという組み合わせは、スレイマニエ・ジャーミイにすでに見られることもわかった。 
もう少しゆっくりとスレイマニエ・ジャーミイの内部空間にいて、あちこち歩き回りたかったが、ムスリムのMさんはさっさと出てしまった。

※参考文献
「建築巡礼17 イスタンブール」(日高健一郎・谷水潤 1990年 丸善株式会社)
「イスタンブール歴史散歩」(澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)
「講談社カルチャーブックス イスタンブールが面白い」(小田陽一・増島実 1996年 講談社)
「知の発見双書51 オスマン帝国の栄光」(テレーズ・ビタール 1995年 創元社