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中央アジア各国の旅行記が完成したので、西アジアのイラン旅行をまとめています。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2016年1月11日月曜日

パフラヴァン・マフムド廟1 朝散歩で見つけた小さな墓廟


朝、ヒヴァのイチャンカラ(内城)を散歩しているうちに、⑯東門を出て、その南側の城壁のなくなっているところから、またイチャンカラに入り、⑱アヌシャ・ハンの浴場を見た後は、㉒イスラム・ホジャのミナレットの前を通って㉑パフラヴァン・マフムド廟へと歩いて行った。

広場のようなところから、朝日をあびるパフラヴァン・マフムド廟が見えた。
後に北側にあるジュマ・モスクのミナレットから見えたように、パフラヴァン・マフムド廟の周辺には墓廟がたくさんあったが、東側にも小さな墓が並んでいた。

イスラム・ホジャのミナレットのところで角を右に曲がると、墓廟が並んでいる。
プレートのある廟は、マザリ・シャリフのメドレセで、墓廟ではなかった。
建物はあまり古くなさそうだが、この扉はイスリミ(植物文)だけで、密に渦巻く蔓草文がええなあ。鍵が掛かっていて幸いし、一対の浮彫を見ることができた。
細かい比較はしていないが、このような木の扉や木柱の浮彫装飾の伝統が、ヒヴァの宮殿などの壁面装飾に使用された絵付けタイルの文様に繋がるのだろう。

この通りは坂になっていて、所々に段がある。

幾つか墓廟の前を通り過ぎて、パフラヴァン・マフムド廟はあった。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、パフラヴァン・マフムド(1247-1326)は詩人、哲学者、レスラー及び毛皮加工業者であった。伝説によると、彼は自分のワークショップに埋葬されたそうである。14-17世紀に、パフラヴァン・マフムドの埋葬地の周りに墓地が造られた。
1810年にムハマド・ラヒム・ハンによって廟は再建された。新しい廟には古い墓と高いダブル・ドームがあるハナカからなっていて、シルエットがヒヴァのシンボルとなったという。
扉が開いていたので入っていくと、新しそうな木の扉には、これまでと異なった浮彫が。
ウズベキスタンでは一般的なドームのある門を通って、
中庭は、パフラヴァン・マフムードを慕って訪れる人々のためにか、くつろぐ四阿などがあって、正面には今まで見たヒヴァの絵付けタイルとはまた異なった雰囲気のタイルで覆われた門構えが。でも、入口は閉じられている。
その扉は、浮彫ではなく、貼り付けた組紐で10点星その他のギリヒ(幾何学文)を表している。その上にはアラビア文字の銘文と蔓草文、枠には蔓草文。そして下には長さが同じモザイク片で、いろんな幾何学文をつくりだしている。
中庭左手には二階建ての建物がある。
同書は、20世紀初頭にアスファンヂャル・ハン(1910-20)の命で中庭の西部に二階建てのコホリナ、東部に夏用のアイワン・モスクが造られたという。
かなり新しい墓廟だった。

廟に一番近い部屋の扉が開いていた。
中をのぞいてみると、タイル貼りの棺が3つ。
タイルの文様は、ヒヴァで見てきた左右対称に渦巻く蔓草文が埋め尽くしているとはいえ、20世紀前半のものなので、新たなデザインも見られる。
タイルについては後日
内部は暗いのでピンボケ気味だが、四隅にスキンチがあって、
正方形から八角形と移行し、ドームが架かっている。ここだけは二階建てではないみたい。
左の夏用モスクに座っている人がいた。廟の管理人か、それとも廟が開くのを待っている人かも。

通りに出て、ホテルへと向かう。
パフラヴァン・マフムド廟の前が一番低くなっていて、今度は登り坂。
朝の人気のない静寂な雰囲気は、日中様変わりする。それは観光客の人だかりというよりも、土産物屋が道沿いに立ち並ぶからだ。

                      →パフラヴァン・マフムド廟2 廟に入る

関連項目
パフラヴァン・マフムド廟のタイル1 中庭
パフラヴァン・マフムド廟3 周りの墓群

※参考文献
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT