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中央アジア各国の旅行記が完成したので、西アジアのイラン旅行をまとめています。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2016年3月3日木曜日

マルグシュ遺跡1 王宮へ


マルグシュ遺跡はトルクメニスタントルクメニスタンのマリ北方にある青銅器時代の遺跡である。
『シルクロードの古代都市』は、「マルギアナ」は古代ギリシア人による地名である。アケメネス朝ペルシアのダリウス王ビヒストゥン碑文では、マルギアナがマルグシュとよばれた。アフガニスタンに発し、トルクメニスタンのカラクム砂漠南東部の砂漠に消えるムルガブ川河口部デルタ地帯のオアシスである。現代の都市は昔よりも南へ下がり、マリ、バイラムアリなどの都市になっている。
マルギアナは古代において、西方でパルティア、北東でソグド、東でバクトリア、南でアレイアと接していたという。


ガイドさんによると、アケメネス朝期に栄えていたマルグッシュが、マルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴ。メルヴのエルク・カラにアケメネス朝の都城が造られたという。
『シルクロードの古代都市』は、トゴロク21号はマルグシュ全体(焼く3000平方㎞)のなかでも代表的な神殿遺跡である。
この神殿のあるムルガブ川の古代デルタ(つまりマルグシュ)に人が住みはじめたのは前4千年紀末で、  ・・略・・ 住民はトルクメニスタン南部、テジェン川流域にあるゲオクシュル遺跡(前4千年紀初め-前3千年紀)方面から移住したアナウ文化系の人びとであった可能性が高いという。サリアニディは、彼らが前2千年紀にコペトダーグ山麓方面からムルガブ方面へ移動したと考えている。という。
同書は、トゴロク21号は31の集落群の中心をなす神殿で、出土した遺物が多く、マルグシュ文化の意義を示す重要な指標となっているという。
しかし、見学したのはゴヌルという遺跡だった。

マリの街からメルヴ遺跡の西側にある道を北上。農地から段々と乾燥した風景へと変わっていった。舗装道路のうちはまだいい方だった。
落ちるのではないかと思うような狭い橋のようなものを渡り、車は疾走を続けた。
ついに平地から凸凹道へ。写真に撮れるのはまだましな箇所。
地平線に何やら茶色いものが見えてきたと眺めていたらラクダの放牧。
ここで写真ストップ。中央アジアでラクダはヒトコブとフタコブに分かれると言われているが、トルクメニスタンではヒトコブラクダだった。
柔らかそうな草を食んでいるが、砂漠に生えるラクダ草と呼ばれるラクダが好んで食べるとされるものは、トゲトゲがあって触れると痛い植物である。

ホテルから3時間20分かかってようやくゴヌール遺跡に到着。
まずは発掘チームが用意してくれた昼食で腹ごしらえ。とても食べきれなかった。

食べ終わるやヴィクトールさんがやってきて、たくさんの図面を見せながら遺跡の説明をしてくれた。
テントから遺跡は見えないので、あまり実感できなかった。
その図面はまだ報告書ができていないのでウェブに載せないようにとのことだった。ということで、『シルクロードの古代都市』の図版を使わせていただいている。
同書は、ゴヌルの都城址は面積約40ha、南から北へ長い楕円形になっている。1988年からサリアニディを団長とする発掘が続けられ、高さ約4mの中央の高台は115X120m、防壁をめぐらした四角形の大建築であった。防壁には四方に6個ずつの塔があった。内部はかなり複雑な構造で居住用、儀礼用などがあり、居住用は男子用と女子用の区別があった。儀礼用の部屋は大小いくつもあり、そのひとつの高い場所にはいけにえを献げた炉があった。
防壁の外側、防壁に接して、おそらくは王宮と同時に建設されたと見られる拝火神殿があったという。
ゴヌールには3つの壁があったらしい。



説明が終わるとヴィクトールさんは遺跡に向かって歩き出した。
砂漠の中をどんどん歩いていく。右の低い山の果てる辺りに案内板らしきものが。
ユネスコ世界遺産の看板。ここから都城の周壁内かな。
その向こうに復元された内城壁や遺構が見えてきた。
城壁には向かわず、遺構を踏み付けながら北に向かう。
結局城壁の北側に回り込んだ。
マリの博物館にあった模型では左から2つ目が北壁

ヴィクトールさんはやっと止まった。
土器の窯跡。向こうが円くなっていて、ヴィクトールさんの図面によれば焼成室らしい。手前が焚き口。その図面では、焼成室にはドーム、焚き口から燃焼室にはヴォールト天井が架かっている。図面では、まるで日本の前方後円墳のようだった。
壁面や柱に溶けた灰が付着している。この柱に火が当たると、火が先へ進むのを遮断し、火が撹拌されて温度が上昇するらしい。それで、この部分に灰が付着しているのだ。
窯の壁でも日干レンガを重ねた跡がわかった。長期に渉って使い続けて灰が溶けて釉薬のように付着している。
日本では、六古窯と呼ばれる土器をつくっていた時代、施釉していない器を穴窯で焼成していたが、燃料の薪が燃えて灰となり、それが器に付着したり、厚くかかったところでは流れたりした。そこから灰をかけてから焼く、つまり施釉の陶器を焼く技法が生まれたと、昔々聞いたことがあるのだが、この地では、当時薪で窯を焚くほどの森林があったのだろうか。それとも乾燥に強いサクサウールの木かな。

その後ヴィクトールさんは少し移動して、再び止まった。
この辺りは貯蔵室になっていたらしい。半分地中に埋めると温度もあまり変化せず、ひっくり返すこともない。
色も形もさまざま。
まるで釉薬がかかっていたかのような
またヴィクトールさんはどんどんと歩いて行き、着いたのは共同食事の場所。集団で食事する習慣だったのだろう。
北外壁の近くで土器片や炭が層になっていた。

これが竈だったという。
竈では手前で火を燃やし、奥で肉を焼いたのだそう。

                            →マルグシュ遺跡2 王宮


関連項目
マルグシュ遺跡4 王族の墓巡り
マルグシュ遺跡3 ゴヌール遺跡の水利施設と初期の窯址

※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)