お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年11月6日水曜日

デルフィ7 アポロンの神域6 デルフィの馭者像


アポロン神殿への参道を上り詰めた。
アポロン神殿の前ともなれば、とりどりの奉納物が林立している。

47 隣保同盟(アンピクテュオネス)のアポロン 前4世紀中葉 青銅製 高さ15.5m
デルフォイ人の所謂「小麦の守護神(シタルカス)アポロン」

48 アテネ人の奉納物 前465年
同書は、パウサニアスの記述によれば、アテネ人の対ペルシアの戦勝を記念する金メッキのアテナ女神像が上に載っている青銅のヤシの木という。 

49 プルシアスのステラ 前180年頃
アイトリア同盟によって奉納されたビテュニア王プルシアス2世騎馬像のための角柱という。
その上部
想像復元図
デンティル下のフリーズの浮彫が、現在あるものとは異なっている。

50 アポロン神殿は次回

51 キオス人奉納の「アポロンの大祭壇」 8.60X5.10m 白大理石と黒石灰岩 前5世紀
『DELPHI』は、アポロンに犠牲の動物を捧げた古い祭壇は、大きな長方形のもの(9X5m)に取って代わった。それは白と黒の大理石で、キオス人が前5世紀に建てた。イオニアの反乱(前499-494年)の後、あるいはミュカレの海戦(前479年)でのペルシア人からの解放を感謝して奉納したという。 
想像復元図

52 エウメネスの台座 前197-182年
アイトリア人の奉納したペルガモン王エウメネス2世の乗馬像の台座 

53 クラテロスの壁龕 前320-300年 
同書は、クラテロスの息子の奉納物。彫刻家リシッポスとレオカレスが、獅子狩りでアレクサンドロス大王を助ける将軍クラテロスの青銅群像という。
それが今ではこんな状態。

54 ポリザロスの奉納物-御者像 前478年
同書は、シチリアのジェーラの専制君主ポリザロスの奉納物。前478年のピティア祭での彼の勝利を記念するためのものという。
横から
『ギリシア美術紀行』は、原作は、四頭立て戦車に乗るこの御者像のほかに、一頭の轡を取る少年の馬丁が組み合わされた、一大青銅記念物であったと考えられる。前478年もしくは前474年、あるいはそれら両方のピュティア祭における戦車競技の優勝を記念して、これらデイノメネスの息子たちの一人によって寄進された、数少ない厳格様式の青銅彫刻の傑作であるという。
襞の表現の細かさ!
後ろから
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、御者の正装である袖付きの長衣を腰で留め、襷を掛け、首と腰を向かって左側(おそらく観者側)に軽くひねっている。下半身が異常に長いのは、その半分が馬車の車体に隠れることをあらかじめ計算にいれたためと考えられる。結果的にその長さが、襞の垂直の流れとも相まって、像全体に一段と厳粛さを与え、厳格様式の彫刻の代表作とされるという。
頭部
同書は、こめかみの巻き毛が別に鋳造され接ぎ合わされている。ヘアバンドに銀の雷文、唇に黄銅が象眼され、眼球はガラスと石で作られている。
技法的には、卵型の頭の形やヘアバンドから上の頭髪を鋳造ではなく直彫りしている点などに、当時としてはもはや時代遅れな古様を残している。様式的には、装飾的な頭髪の扱いや、写実的な描写よりも形式的な美しさの表現を優先させた上半身の衣文の作りに、奉納者の統治域でもある南イタリアの彫刻の様式特徴がみとめられるという。
まつげはどうなのだろう。
『ギリシア美術紀行』は、発見物として、2本の馬の後脚、蹄、尾、手綱、少年の左腕、そして銘断片があるという。
それが考古博物館ではこのように展示されている。
 そして想像復元図もあった。

55 ポテイダニオン
『DELPHI』は、アルカイック時代の基礎のある小さな建物。ポセイドンの聖域という。

56 カソッティスの泉

57 ダオコスの奉納物
同書は、屋根付きの長方形の建物は南面が開かれていて、奉納像を並べる11.50mの台座があったという。
『ギリシア美術紀行』は、テッサリアのファルサロスの領主ダオコス2世がデルフォイの隣保同盟の代表役員かつ同盟の議長であったとき奉納した9体の大理石群像。或る復元によれば、向かって右から①オムァロスに坐すキタラ弾きのアポロン、②一族の祖アクノニオス、③パンクラティオン選手アギアス、④ボクシング選手テレマコス、⑤競争選手アゲラオス、⑥奉納者の曽布ダオコス1世、⑦奉納者の父シシュフォス1世、⑧奉納者ダオコス2世自身、⑨彼の息子シシュフォス2世という。
こんな写真しかなかった。
左から二人目の左手を挙げているのがダオコス2世らしい。

58 3人の踊り子の円柱台座 前335-325年頃 11m(台座共で12.50m)
『DELPHI』は、アテネ人がペンテリコン産大理石で造った。柱頭同様、植物の茎を模した円柱の台座は、下向きに彫り出したアカンサスの葉を放射している。頂部は高浮彫の3人の踊り子が掲げられる。アカンサスの葉に載った三脚の鼎を踊り子たちのポロス帽で支えているという。
このようなアカンサスの葉がタケノコの皮のように柱身の節に巻きついたような円柱は、コリントス考古博物館の側に置かれていた。
それについてはこちら
同書は、踊り子たちは左手で短いキトンを掴み、右手は上に挙げている。着衣はぴったり体についたりふわふわ翻って、旋回しているかのようだという。
この図では、更に鼎の上にオンファロスが載っている。
鼎は、上の想像復元図を見る限りでは、同じ大理石ではなく、青銅製だったようだ。
青銅製の鼎については後日
確かにこのオンファロスは踊り子像の近くにあった。 前330年頃
部屋の隅には一番下のアカンサスの葉と茎が置かれていた。 

59 ネオプトレモスの小聖域 前4または3世紀
『DELPHI』は、デルフィでアポロンに殺されたアキレスの息子の墓。デルフィ市民は年に一度堅守をして称えたという。
 
60 クニドス人のレスケ 前470-465年
同書は、長方形の建物で、南に入口があり、石の台の上に4本の木柱を渡し、2列に屋根が残っていた。柱廊に面した中央の通路はパライストラとして使われたという。
パライストラは、レスリング、ボクシングなどの挌技用の練習場。

61 劇場 後日

62・63 ディオニュソスの神殿、小聖域


デルフィ6 アポロンの神域5 青銅蛇の柱に載っていたのは鼎
                                          →デルフィ8 アポロンの神域7 アポロン神殿

関連項目
コリントス遺跡4 博物館3
デルフィ11 デルフィの町とギュムナシオン 
デルフィ10 アポロンの神域9 スタディオン
デルフィ9 アポロンの神域8 劇場
デルフィ5 アポロンの神域4 ハロースに埋められていたもの
デルフィ4 アポロンの神域3 アテネ人の宝庫
デルフィ3 アポロンの神域2 シフノス人の宝庫
デルフィ2 アポロンの神域1 シキュオン人の宝庫
デルフィ1 まずはアテナ・プロナイアの神域から

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事出版社
「DELPHI」 ELENI AIMATIDOU-ARGYRIOU 2003年 SPYROS MELETZIS