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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年3月10日月曜日

クレタ島1 クノッソス宮殿1


『世界歴史の旅ギリシア』は、20世紀初頭にエヴァンズによってクレタ島でもっとも大規模なミノア文明の宮殿が発掘されたクノッソス遺跡は、イラクリオンから5㎞ほど南にあるケファラの丘に立地している。ここにはすでに前6500年頃には新石器文化を持った人々が定住していたが、前2000年頃になると、丘の頂上部には巨大な宮殿(古宮殿)が築かれた。現在遺跡で目にすることのできるのは、地震を経て再建された新宮殿時代の遺構(「玉座の間」などはさらに改変を受けている)であるが、長方形の広場を中心に、異なる機能を担ういくつかのブロックが配されたミノア文明の宮殿の規格化された構造は、すでに古宮殿時代には確立されていたらしいという。
この想像復元図(左上が北)は、今回の旅行の際に入手した『クノッソス ミノア文明』(以下『クノッソス』)という本に載っていたものだが、他の書物にも似たような図が描かれており、その広大さと建物の立派さに驚きの念を隠せなかった。
 
しかし、それから長い年月を経て、ギザのピラミッドを見ても大きいとは思えなくなっており、この度のギリシア各地の神殿跡などを見ても大きくは感じなかった。そのため、きっとクノッソス宮殿も大きくないだろうと思いながらやってきた。
下図は絵葉書で、上図とは南北が逆になっている。
『クノッソス』は、宮殿は、王、役人および祭司らの住居であり且つ統治の拠点であっただけではなく、行政と経済活動の中心であるとともに宗教儀式の場でもあった。
建物は中央宮庭を挟んで西翼と東翼に分けられる。西翼Aには主として公的行事や宗教上の儀式に用いられた部屋が並び、東翼Bには王家の住まい(ロイヤル・アパートメント)や工房が建てられていたという。
西ゲートから長々と簾棚の下を歩いて、その先に遺跡が見えてきた。思った通りこぢんまりしている。

遺跡全体の平面図(『クノッソス』より)
西翼1階の平面図

1 西宮庭 西翼の西側一帯
2 2箇所に祭壇がある(想像復元図で人々が取り囲んでいる小さな四角形のもの)。
3 穀物貯蔵穴
3つの大穴がある。 
『クノッソス』は、庭内には3つの大きな円筒形の縦穴(クルーレス)が掘られているが、これらの中には儀式の際に使用されたとみられる土器の破片が残されていた。西側と中央の穴の底には宮殿以前の家屋の遺構の一部が保存されている
北側の穴では新宮殿期の遺構が見つかり、そこからは「スネイク・チューブ」と名づけられた筒型の土器(聖なる蛇がその中で飼われていた?)が出土している
という。

同書は、西宮庭には2つ祭壇2が設けられている。
西宮庭の東側には、宮殿外壁(ファサード)が見える。下段に石膏石(ギプサム)のブロックが隙間なく積まれ、整然として美しい外壁が形成されている。煤けて黒くなっている部分は、宮殿が火災で破壊されたことを明らかにしているという。
外壁中央左よりに見える四角形のものが2:祭壇の一つ。
外壁に浅いが一段高くなった四角形の間が2つ南北に並んでいる。

4(左側) 西ポーチ(円柱付き入口ホール)
この円柱の基台(石膏石製)は良い状態で保たれている。ポーチの東壁には闘牛の場面が描かれていたようだ(見つかっているフレスコ画の断片は雄牛の足の一部のみ)という。
5 見張り場
守衛が控えていたのかもしれないという。

6 椅子が据えられた間
王が座して西宮庭での儀式を眺めるための間であったのかもしれないという。

7 行列の回廊 現在は観光客の通路(木道)が付けられている。
床張りは真っ白な石膏石のタイルと緑石のタイルの組み合わせ模様でなされ、タイルのつなぎ目には赤色の漆喰が塗られていたという。
この回廊の壁面には「献上行列」の場面-中央の女性(女王か女神であろう)に献上する貢ぎ物を手にして一列に並んでいる等身大の若い男女が描かれていたという。

西側の遺構は低い位置にある。
8 南の家
その横は南入口に続く通路。
同書は、右手下方に見える建物は新宮殿期に建てられ、「南の家」と名づけられている。宮殿に仕えていた高位の祭司の住居であったのかもしれないという。

見学者用の通路はあちこちで折れ曲がり、やっと通路の高さに建物跡が現れた。

9 南西ポーチ
ミノア時代の円柱は木製で、下方へ向かうにつれて細くなっているのが、その特徴である。基台は一般に石膏石製で円形。
このポーチの下は半地下室となっているという。
赤い円柱は、木を上下逆にして立てるものだった。
通路の南側にも遺構はある。その先を左へ、
南西ポーチの反対側には白い円柱のある建物跡と、その南東には聖なる牛の角が置かれている。
「行列の回廊」から2本の通路が伸び、一方の通路は10:中央宮廷へ、他方は11:宮殿の南公式入口(プロピレア)へと導くという。
聖なる牛の角
『迷宮のミノア文明』は、牡牛の角を模したと思われる、この巨大な石造りの「奉納の角」は、かつて宮殿を飾りたてていたという。
想像復元図にも描かれている。

11 南公式入口
奥の階段へと続く通路。
この入口の南西部分はエヴァンスにより復元されたという。
南公式入口では円柱も角柱も白く塗られている。
ここに描かれていた壁画は、「献上行列」の画に連続していたと推測される。ただし、この壁画に登場するのは男子のみであるという。
それぞれ異なる形の土器を両手で掲げて運んでいる。
リュトンを運ぶ男 宮殿末期(前14世紀) イラクリオン考古博物館蔵

階段を登っていく。
途中で大きな壺類が並んでいた。アナトリアのヒッタイトもそうだが、この頃の貯蔵用壺類は驚くほど大きい。
発掘時に見つかった破片を集めて修復された。これらの土器は、アカイア人により宮殿が「再居住」されていた時にこの場に置かれたに相違ない。その時、彼らは公式入口を貯蔵室として使用していたのであるという。

      ロドス島7 ヨハネ騎士団長の館2← →クレタ島1 クノッソス宮殿2

関連項目
クレタ島3 クノッソス宮殿3
クレタ島4 クノッソス宮殿4
クレタ島5 クノッソス宮殿5
クレタ島6 イラクリオンを海辺まで街歩き

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
「迷宮のミノア文明 事実になった神話」 ルイズ・スティール 1998年 主婦と生活社