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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年9月5日木曜日

ペロポネソス半島4 ミケーネ3 円形墓域A


ライオン門を入って右手には、円形墓域Bと同じ時期に造られた円形墓域Aがある。
説明板の図
『古代ギリシア遺跡事典』は、ライオン門をくぐってすぐ右手の城壁に接した建物は、その地階部分から炭化した穀物が出土したことから、「穀物倉」と呼び慣わされている。この建物は、おそらく宮殿が前1200年頃に崩壊した後に築かれた。ミケーネ時代末期の土器が穀物倉様式(グラナリ・スタイル)と呼ばれるのは、ここからの出土土器にちなんでいるという。
ライオン門を入ってすぐ右手。
これが穀物倉、でもミケーネ時代よりも後に造られた。
遺跡上方から穀物倉を見下ろす。
向こうにアイギストスの墓、クリュタイムネストラの墓、そして円形墓域Bも見えている。
円形墓域を左端から眺める。二重の板石列で囲まれていたらしい。
同書は、穀物倉の南にある砂岩の板石によって二重に囲まれた環状の遺構が、シュリーマンによる発掘で名高い円形墓域Aである。この場所には、前17世紀の後半から前16世紀にかけて、6基の竪穴墓を埋葬施設とする円墳(トゥムルス)が築かれたという。
円形墓域Aの被葬者たちが特別な地位にあったことは、前14世紀に城壁が拡張されるにあたって、そのラインがこの墓域を囲むように設定されていたことにも示されている。その際、もとの円形墓域の西側には支えの壁が築かれ、その上に北側に面した入り口部分を伴う二重の環状の遺構が作られたという。
これが北側にある墓域への入口。
もう少し上から眺めたが、やはり全体は見えなかった。
同書は、竪穴墓とは、まず地山に深さ数mの長方形の竪穴を掘り込み、底部の四壁に石を積んで棚を作り、そこに木製の板を渡して墓室を作るタイプの墓である。一つの竪穴墓には複数の死者を追葬するのが通例だったらしく、円形墓域の6基からは男女合わせて19の埋葬例が確認されているという。 

途中まで埋め戻されているのではなく、竪穴墓のある箇所はそのままにしてあるということらしい。

男性には武器が、女性には装飾品が副葬品として添えられているが、それらは膨大な黄金製品をはじめとする豪華なもので、被葬者たちがこの時代の社会の最上層に位置していたばかりではなく、外部世界と密接な関係をもっていたことを示唆している。とりわけ4号墓と5号墓からは、黄金のマスクなどの特異な遺物が出土しているという。
それについてはこちら

           ミケーネ2 ライオン門← →ミケーネ4 アクロポリス 

関連項目

アテネ国立考古博物館 ミケーネ5 貴石の象嵌
アテネ国立考古博物館 ミケーネ4 象嵌という技術
アテネ国立考古博物館 ミケーネ3 瓢箪形の楯は8の字型楯
アテネ国立考古博物館 ミケーネ2 円形墓域A出土の墓標
アテネ国立考古博物館 ミケーネ1 アガメムノンの黄金マスクとはいうものの
ミケーネ9 アトレウスの宝庫はトロス墓
ミケーネ8 博物館3 渦巻文は様々なものに
ミケーネ7 博物館2 土偶
ミケーネ6 博物館1 祭祀センターのフレスコ画
ミケーネ5 メガロン
ミケーネ1 円形墓域B

※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社