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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年10月3日木曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻


オリンピアはゼウスの聖域であるのに、現在ゼウス神殿には1本の円柱しか立っていない(西側)。

『古代ギリシア遺跡事典』は、アルティスの南側中央に巨大な廃墟をさらしているのが、ペロポネソス半島最大の神殿であるゼウス神殿である。前472年頃に隣国ピサを最終的に破壊したエリスは、その戦利品で巨大な神殿の建築を企てた。設計したのはエリス人のリボンで、完成したのは前456年のことである。高さ3mの基壇(長さ64m、幅27.6m)の上には、長辺13本、短辺6本の円柱(高さ10.43m)によって支えられた重厚なドーリス式神殿がのっていた。使われた石材はおもに地元のものであるが、大理石に似せるためにその表面は白く塗られ、上部は鮮やかな彩色で飾られていたらしい。屋根だけは上質の大理石で葺かれ、陽光をあたりに眩しく反射させていたという。

考古博物館に入ると、真っすぐに中央の展示室へと向かった。
『オリンピアとオリンピック競技会』は、ゼウス神殿の2の破風とメトープは、かなり良い状態で保存されている。彫刻の表現様式からみて、これらは初期古典期に属する、いわゆる厳格様式時代に制作された。
厳格様式とは、アルカイック期末から古典期の初めにかけての移行期の彫刻の様式である。制作年代は、ペルシャ人がアテネを攻略しようとした前480年前後(アルカイック期末)から、パルテノン神殿の建設が着手された前450年頃(古典期初め)の間と考えられるという。

ゼウス神殿の東西破風の彫刻が中央の広大な第5室の東西両壁に展示されていて、その大きさに、どう見たら良いのか、というよりも、どこからどのように写すのが良いのか、途方に暮れるくらいのものだった。しかも、見学者が間近で見ていくので、それを避けてカメラに収めるのは至難の業だった。

5室に入って右に東破風(ペディメント)の彫刻群
『オリンピアとオリンピック競技会』は、神殿の東側(正面)の破風には、若者ペロプスとピサの王オイノマオスの間で戦われたチャリオットレース(馬が引く戦車による競争)の場面が描かれていた。神話の中の物語を題材としているが、この地オリンピアの歴史とも深くかかわっている。
走るコースは、オリンピアからコリントスのイストミアに築かれていたポセイドン神殿までと決められた。
この物語の場面は陶器に描かれているが、彫刻で表現されている例はゼウス神殿のみである。
何とかして王を負かそうと考えたリュディア出身のペロプスは、王の馭者ミルティロスに王のチャリオットの車輪からくさびを抜かせておいた。
こうしてペロプスはヒポダメイアを妻とし、エリス地方のみならず、ペロポネソス全土の支配者になった。ちなみにペロポネソスとはペロプスの島という意味であるという。

入口側から写したが、右端が切れてしまった。
中央5人の右側にいる人物について同書は、馬丁とみられる男性がひざまずいている。この男性像はオイノマオスの馭者ミルティロスであろうという。
馬から端まで。
同書は、その後方に見える年老いた男性の像は、チャリオットレースを眺める観衆と解釈されている。その傍らに膝を立てて座りこみ、片手で足先に触れている少年のポーズは実にユニークである。
破風の両端に身体を横たえている若者の像は、パウサニアスによれば、オリンピアの神域の境界となっているアルフィオス川とクラディオス川を表している。つまり、川が擬人化されて若者の姿で表現されているわけである。右端に横たわっている、クラディオス川の擬人化である若者の像は、身体が捻れていて、印象に残る顔をしているという。
また、別の箇所に、河神クラディオスと呼んでいる。
蛇足:ひょっとして、ずっと後のキリスト教時代、キリストの洗礼に登場するのがこの神?
ラヴェンナのアリウス洗礼堂ドーム(後500年頃)にも表されている。
馬は尾が2つ見えていたので2頭だと思っていたら3頭だった。
同書は、両側に4頭立てのチャリオットが置かれていたという。
戦車は4頭立てだった。
奥側から写したが、やっぱり左端が切れてしまった。
馬の前で跪いた人物は召使いという。
跪いた人物から端まで。
『オリンピアとオリンピック競技会』の説明によると、左端の横たわる人物はアルフィオス川の擬人化された像ということになる。
同書は、中央に立っている大きな像は、オリンピアの神域の主ゼウスである。左手に雷電、右手に錫杖を持っていたとみられる。ゼウスの片側にペロプスとヒポダメイア、他方の側にオイノマオスとその妻ステロペが立っている。オイノマオスは髭をはやしているので、年長者であることがすぐに見てとれる。左手を腰に当て、右手に槍を持っていた。ペロプスは裸体で、身につけているのは兜のみである。同じく右手に槍を持ち、左手には盾を構えていたという。
人物あるいは彫像で興味のあるのは、その着衣の表し方。それについてはかなり先にまとめる予定です。

左壁には西破風の彫刻群
同書は、西側の破風に表されているのは、これも彫刻装飾のテーマとして当時の人々に好まれていたラピタイ人と半人半馬のケンタウロスの戦いである。
ラピタイはテッサリアのオリンポス山中に住む部族であったという。
奥から写したが、右端が切れてしまった。
ケンタウロスから右端まで。
ラピタイ人とケンタウロスとの戦いの場面。ラピタイの若者に首を押さえ込まれたケンタウロスが、若者の腕に噛みついている。両者の顔に痛みを堪えている様子が表れているという。
右端。
左端にはラピタイ人の婦人達。そして、その向こうにライオンの樋口。
破風の中央に立っているのは、秩序の神としてのアポロンである。背にかけた衣の一方の端が右肩から下がり、もう一方の端が左腕に巻きついている。左手で弓を支えていたとみられている。右腕をまっすぐに横に伸ばし、同じ方向に頭を向けている。これはおそらく、乱闘を戒め、秩序を回復するよう命じるポーズであろう。
アポロンの左側に置かれていた王ペイリストスの像は、頭と脚の一部しか残っていないが、多分、右手で握っていた剣で、花嫁を連れ去ろうとしたケンタウロスを突こうとしていたのであろう。
アポロンの右側にいるのは、この戦いに加わったアテネの英雄テーセウスである。テーセウスは手にしている斧を、ラピタイの娘の腰に手をかけているケンタウロスに打ちつけようとしているという。
ライオンの樋口は他にもあった。

石造で、破風の横側取り付けられていたらしい。
いままで見てきた軒飾りのライオンの樋口はテラコッタ製で、その内最も古いものが、エピダウロスのアスクレピオス神殿のもので前380-370年頃だったが、このライオンは前472-456年と100年近く遡るものだ。

入口側から眺めた第5室と奥の第7室の彫像。

第7室にはパイオニアス作のニケ(勝利の女神)像だけが展示されていて、周囲を巡ることが出来る。
『オリンピアとオリンピック競技会』は、ゼウス神殿の南東に、高さ9mの台座がそびえていて、その上に翼を広げたニケの像が載っていた。この像は彫刻家パイオニアスによって制作されたことから、パイオニアスのニケと呼ばれている。年代は前420年頃と推定されている。
パイオニアスは、ゼウス神殿の破風の上にアクロティリオンとして載っていたニケ像の制作者でもあるという。
こちらは盛期古典様式期に造られたものなので、様式が破風のものとは異なっている。

オリンピア5 ゼウス神殿←        →オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ

関連項目
オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り
オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの
オリンピア9 ヘラ神殿界隈
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物
オリンピア3 フェイディアスの仕事場
オリンピア2 オリンピック競技のための施設
オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場

※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2003年 東京堂出版
「オリンピアとオリンピック競技会」 ISTEMENE TRIANTI,PANOS VALAVANIS 2009年 EVANGELIA CHYTI